恋人の部屋というのは、どこか夢のような空間だ。
生活感に満ちた香り、女物のシャンプー、洗面台の小さな歯ブラシ。
男にとってはすべてが新鮮で、自分のものではない場所なのに、なぜか“安心”できる。
彼女と付き合い始めたばかりの頃、そういう甘い錯覚の中にいた。
彼女は一人暮らしの社会人で、俺は大学生。
アルバイトとゲームに明け暮れる日々のなか、自然と彼女の部屋に転がり込むようになった。
それが半同棲の始まりだった。
だが、彼女にはひとつだけ問題があった。
「元カレ」──彼女の言葉を借りれば、“未練タラタラで、ちょっとしつこい人”。
電話がかかってくるだけならまだしも、部屋の前に立っていたこともあるという。
真顔で話す彼女に、冗談の入り込む余地はなかった。
「オレが話してこようか?」
「やめて。体も大きいし、何するかわかんないよ」
「警察に言えばいいじゃん」
「前は好きだった人だし……私のせいで犯罪者になるのも、ちょっと……ね」
その“優しさ”は、彼女の人柄をよく表していた。
だが、それが後にあんな恐怖を連れてくるとは、この時は思いもしなかった。
その年のお盆。彼女は一週間、実家へ帰省することになった。
「私いないけど、部屋にいていいよ」
その言葉を免罪符に、俺はゲーム機を持ち込んで滞在を決めた。
まるで一人暮らしをしているようで、楽しかった。
エアコンをつけ、カーテンを閉めて、昼も夜もなくゲームに没頭する。
その夜、8月の空気は重く、じっとりと体に貼りついた。
彼女の誕生日は明日。せめて午前0時にメールだけでも、と決めていた。
エアコンの風がうなり、テレビの画面が部屋の天井を青白く染めていた。
夢と現の境界が曖昧になる、深夜の気怠い時間。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
時計を見た。11時半を回っていた。
部屋には俺しかいない。誰も来るはずがない。
一瞬で全身の毛穴が開く。息が詰まり、コントローラーを握る手が止まる。
ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。
非常識な時間だ。けれど、俺は世帯主ではない。
出る理由も、出ていい資格もない。無視することにした。
ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン。
さっきより速い。執拗さが、こちらの精神を削ってくる。
「さおり……オレだよ。いるんだろ?」
あの声だ。
無意識に背筋が凍った。
彼女の名前を呼ぶ、どこか粘ついたような声。
低く、しかし確実に怒気をはらんでいた。
ゲームを止め、テレビを消す。
部屋は暗闇に沈んだ。
部屋の隅、ベッドの影に体を縮める。
彼が帰るのを、ただ待つしかなかった。
足音が階段を下る音。12時を越え、彼女の誕生日が過ぎた頃だった。
……もう帰ったか?
ようやく緊張が解け、メールを打とうと携帯を手にした瞬間。
ギシ、ギシ、ギシ……
耳を疑った。
窓の外、ベランダ側から軋む音。金属の擦れるような不吉な音。
二階だ。雨樋を使えば、登れない高さじゃない。
まさか――
次の瞬間、カーテンに映る影が動いた。
誰かが、ベランダに立っている。
俺は息を殺した。
テレビは消えているが、エアコンはつけっぱなしだ。室外機が唸っている。
彼には、誰かが中にいることが分かってしまった。
ドン、ドン、ドン……
「なぁ……開けてくれよ。いるんだろ?」
カーテンの向こうで、彼の影が揺れた。
しばらくして、ギシギシと軋む音が再び。どうやら降りていったようだった。
だが、終わりではなかった。
ドアスコープを覗いた。
心臓が止まりそうになった。
すぐそこに、横顔があった。
彼は、ドアに耳を当てて、息を殺していた。
何かを“聞き取ろう”としているようだった。
そのまま屈みこみ、郵便受けを開けた。
そこから出てきた手には、**曲尺(かねじゃく)**が握られていた。
長い金属の定規。あれで何を?
まさか、鍵を開けるつもりなのか?
ペチ……ペチ……ペチ……
金属が鍵に当たる微かな音が、深夜の静けさに溶けた。
心臓が痛いほど脈打った。
体は動かず、脳だけが走り出した。
警察に電話?
奴が「俺が不審者」って言ったら?
鍵を開けられたら?
台所に包丁がある。使うのか?
恐怖は、最悪の選択肢を次々と見せてくる。
限界がきた。
ガン!
郵便受けから突き出た手を、上から思いきり蹴り飛ばした。
俺の足がそれを弾いた瞬間、手は引っ込んだ。
すぐにチェーンロックをかけた。
一瞬の静寂――そして。
ドーン!
怒りの音。
彼が、玄関を蹴ったのだ。
壁が震え、心臓が破れそうになった。
何度も何度もドアが蹴られる音。
そのとき、どこかの部屋のドアが開いた。
誰かが顔を出したのだ。
彼は走り去った。階段を一気に駆け下りて。
ドアスコープを覗くと、もう誰もいなかった。
彼女が戻ってから、俺はできるだけ平静を装って伝えた。
全部は言わなかった。言えなかった。
俺の恐怖より、彼女の罪悪感の方が重くなると思ったからだ。
彼女はすぐに引っ越し、携帯を変えた。
けれど――彼の姿は、今も時々、街の雑踏の中に紛れて見える気がする。
たとえば、電車の中。
改札口を通る後ろ姿。
交差点で信号を待つ、あの横顔。
きっと、まだどこかで、彼女のことを見ている。
いや、俺のことを見ているのかもしれない。
あとがき
怪談とは、怪異そのものよりも、「不在の不気味さ」を描く芸術だ。
この話の“元彼”は、最後まで名前も明かされない。ただ、「ここにいるかもしれない」という存在感だけで、十分に恐ろしい。
[出典:887: 元彼 投稿日:2009/07/21(火) 12:15:57 ID:ZfBhv75q0]