チャイムが鳴ったとき、部屋には俺しかいなかった。
彼女は帰省中で、一週間は戻らないはずだった。
それでも、ここにいると決めたのは俺だ。
「いないけど、いていいよ」と言われたあの言葉を、勝手に許可だと思った。
半同棲みたいなものだった。
女物のシャンプーの匂い、小さな歯ブラシ、洗面台に並ぶ化粧品。
他人の生活の隙間に、自分の身体を差し込む感覚が心地よかった。
彼女には元彼がいる。
正確には、いた。
別れたあとも、何度か部屋の前に立っていたことがあるらしい。
「ちょっとしつこい人」と彼女は言った。
俺は深く考えなかった。
過去の話だと思っていた。
その夜、八月の空気は重く、カーテンの向こうに熱が溜まっていた。
時計は十一時半。
テレビの青白い光が天井を揺らしている。
ピンポーン。
最初の一回で、背中が固まった。
俺はこの部屋の住人ではない。
出る資格がない。
ピンポーン。ピンポーン。
間隔が短くなる。
息を殺してテレビを消した。
部屋が暗く沈む。
「さおり……いるんだろ」
声がした。
低く、押しつぶしたような声。
彼女の名前を呼ぶ声。
足音が遠ざかり、やがて階段を下りる気配が消えた。
時計は零時を回っていた。
彼女の誕生日になった。
携帯を手に取った瞬間、窓の外で金属が軋んだ。
ギシ、ギシ。
ベランダ側だ。
二階。登れない高さではない。
カーテンに影が映る。
細長い、人の形。
エアコンはつけたままだった。
室外機が唸る音が、部屋に生き物がいる証拠みたいに響いている。
ドン、と窓が叩かれた。
「開けてくれよ」
影が揺れる。
しばらくして、軋む音は下へと移動した。
終わったと思った。
念のため、ドアスコープを覗いた。
横顔があった。
耳をドアに押し当てている。
目は閉じていた。
聞いている。
中の気配を。
そのまま屈み、郵便受けに手を差し込んだ。
金属の曲尺が握られている。
細長い定規が、鍵穴の奥を探る。
ペチ、ペチ。
微かな音が続く。
俺は息を止めた。
ここにいると悟られたくなかった。
ふと、違和感がよぎった。
どうして彼は、俺がいると知っている。
チャイムを押す前から、確信しているようだった。
「いるんだろ」と。
俺はこの部屋の鍵を持っていない。
入るときは彼女が開けていた。
今日は、どうやって入った。
思い出せない。
郵便受けの隙間から、指先がわずかに動いた。
その爪が、暗闇で白く光る。
衝動的に、俺はその手を蹴った。
鈍い感触。
金属が落ちる音。
直後、玄関が激しく揺れた。
ドン。
ドン。
壁が震える。
だが蹴られているのは、外側ではなかった。
内側からだ。
俺のすぐ後ろで、ドアが軋んでいる。
振り返った。
誰もいない。
だがドアは揺れている。
ドーン、と最後に一撃。
静寂。
階段を駆け下りる足音が、遠ざかっていった。
しばらくして、隣の部屋のドアが開く音がした。
誰かが様子をうかがったのだろう。
再びドアスコープを覗く。
廊下は空だった。
郵便受けの下に、曲尺が落ちている。
拾い上げようとして、気づいた。
内側の床に、それが転がっている。
外から差し込まれたのなら、どうして内側にある。
俺はその晩、部屋を出た。
鍵をかけたかどうか、覚えていない。
彼女は戻ってすぐ引っ越した。
理由は言わなかった。
俺も聞かなかった。
ただ一度だけ、彼女が言った。
「ねえ、あの日さ。どうやって入ったの?」
俺は答えられなかった。
今も、街の雑踏で横顔を見ることがある。
元彼かもしれない。
違うかもしれない。
だがときどき思う。
あの夜、ドアの内側から蹴っていたのは、誰だったのか。
[出典:887: 元彼 投稿日:2009/07/21(火) 12:15:57 ID:ZfBhv75q0]