幼稚園の年長だった。
ある晩、眠っていた私を母が揺り起こした。「着替えて」と囁く声は、夜よりも低かった。訳もわからないまま服を着せられ、車に乗せられた。窓の外を流れる住宅街の灯りが、やがて途切れ途切れになる。舗装の割れた裏道に入り、街灯は間引かれたように減っていった。雑草が車道にせり出し、タイヤが踏むたびに車体がわずかに傾いた。母は何も言わず、前だけを見ていた。
「どこ行くの?」
「セミナーよ。」
その一言だけで、口を閉じた。意味は知らないのに、逆らえない響きがあった。
着いたのは、灰色の古びたビルだった。入口のランプが弱々しく灯り、内部は洞窟のように暗い。母の手を握ったが、すぐに引き離された。数人の子どもたちと一緒に、窓のない部屋へ通される。親たちは別の場所へ消えた。
スクリーンが下り、映像が始まる。青く波打つ模様。次に、目がひとつしかない女の顔が、体を持たずに浮かぶ。人間の体をした動物たちが、関節を間違えたように歩く。音はない。なのに、私たちは声を出さない。怖くはなかった。むしろ、毛布に包まれたように安心していた。眠っているのに目が開いている感覚。
映像の後は銀はがしやぬり絵。見慣れた遊びのはずなのに、空気は重く、時間がゆっくり傾いていく。夜の外気とは別の、閉じた匂いがした。
それが一年ほど続いた。夜の外出は特別で、帰りに寄るコンビニのお菓子が嬉しかった。私はその場所を嫌いではなかった。
変わったのは、あの日だ。
映像の途中で、どうしてもトイレに行きたくなった。いつものトイレには「使用中止」の貼り紙。仕方なく上の階へ向かう。初めての階だった。用を済ませたあと、戻り道がわからなくなった。誰かに聞けばいいと思い、適当に歩くと踊り場に出る。四階へ続く階段には「進入禁止」の札。私はそれをくぐった。
四階は暗く、シャッターが一枚下りているだけだった。つまらないと思いかけたとき、さらに上へ続く細い階段に気づく。そこにも札がある。なぜか、引き返せなかった。
五階は、建物の中にもうひとつ建物が差し込まれたようだった。廊下はわずかに曲がり、左右に並ぶドアはすべて閉ざされている。空気が違う。息を吸うと、喉がざらついた。
行き止まりに、半開きのドアがあった。中から薄い光が漏れている。覗くと、男たちがテーブルを囲み、何かを話していた。声は届かない。顔は暗がりに沈み、テーブルの上だけが照らされている。
一人がこちらを向いた。
「何してるんだ。」
叫び声に体が固まる。逃げようとしたが、男はすぐに出てきた。
「迷子か。」
さっきとは違う、柔らかな声だった。私は事情を話す。男は頷き、「送る」と言った。中にいた他の男たちは、こちらを見なかった。
廊下を戻る途中、自販機が並ぶ場所を通る。
「ジュース、飲むか。」
手渡された小銭を握る。自販機の中身は、見たことのない缶ばかりだった。読めない文字。知らない色。私はひとつ選んだ。甘いはずなのに、金属の味がした。
もっと並びを見たくなり、奥へ進む。突き当たりにドアがある。何気なくノブに手をかけた。
その瞬間、ノブが内側から回った。
ガチャガチャガチャッ、と狂ったように。
手を離す。背後から男が駆け寄り、私の腕を強く掴んだ。
「開けるな。」
低い声だった。さっきまでの優しさはない。ドアの向こうに、何かがいるとわかった。見えないのに、確信だけがあった。
引かれるまま廊下を戻る。背後でノブの音が続く。階段が見えたとき、右側のドアが揺れた。次に左。背後。前方。廊下に並ぶすべてのドアノブが、一斉に回り始める。
ガチャガチャ、ガチャガチャ。
中から外へ出ようとする力が、壁越しに伝わってくる。私は男の腕にしがみつく。
「どうしたの。」
「うるさい。」
短い言葉で遮られた。私は泣かなかった。泣けば、向こうに気づかれる気がした。
その夜のセミナーは、いつもより早く終わった。母の顔は、少しだけ硬かった。帰りの車内で、私は眠らなかった。
それから、二度とあのビルへは行かなかった。母は理由を言わず、私も聞かなかった。あの場所の話題は、家族の間で一度も出ない。
ただ、今でも思う。
あの五階は、本当にビルの中だったのか。あの自販機の列は、どこへ続いていたのか。
そして、あの夜、私を送った男は、いつからそこにいたのか。
もしあのドアが開いていたら、私は戻ってこられただろうか。
それとも、戻ってきたのは、私ではなかったのだろうか。
(了)