まだスマートフォンが当たり前ではなかった頃の話です。
インターネットには、今よりもずっと個人の気配が濃く残っていました。検索すれば何でも出てくる時代ではなく、辿り着いた場所が「そこだけの空間」である感覚が、確かにありました。
その中に、実話系の怖い話を集めた小さな掲示板がありました。大手ではなく、個人が運営している、簡素な作りのサイトです。常連同士が緩やかにつながり、書き込みの文体だけで相手を認識しているような場所でした。
そこに、ある日、一人の中学生だという女の子が投稿を始めました。
文章は拙く、改行も少なく、句読点も不安定でした。時系列もときどき前後し、読み手が補完しなければならない箇所も多かった。それでも、不思議と目が離せませんでした。作り話にありがちな演出や、恐怖を煽る語彙はありません。ただ「怖い」という感情だけが、整っていない文章の奥から滲み出ていました。
最初の投稿は、自室の押し入れの話でした。
夜になると、押し入れの中で何かが動く音がする。最初はネズミかと思った。でも、引きずるような足音で、ときどき内側から板を軽く叩く音が混じる。怖くて親には言えない。布団をかぶって朝まで待つ。そんな内容でした。
掲示板では半信半疑の反応が多く、「よくある話だ」と書く人もいました。
けれど、彼女の報告は妙に具体的でした。
「昨日は三回、今日は五回叩かれました」と回数が増えていくこと。「夜になると隙間から冷たい空気が出てきます」と繰り返すこと。「昼間は閉まっているのに、夜だけ少し開いています」と何度も書くこと。
数回の投稿のあと、彼女はこう書きました。
押し入れの奥に、小さな紙が挟まっていた。
白いメモ帳の切れ端で、「みつけた」とひらがなで書いてあったという。家族に見せても「知らない」と言われ、友達も最近は来ていない。筆跡は自分のものではないと、彼女は強く主張していました。
その書き込み以降、掲示板の空気が変わりました。冷やかしは減り、真剣な助言が増えました。神社に行け、部屋を替えてもらえ、録音しろ、動画を撮れ。彼女はできる範囲で試したと報告していました。
やがて、音は押し入れだけでなく、天井からも聞こえるようになったと言います。
「歩いてるみたいです」
家は二階建てで、彼女の部屋は二階。屋根裏はあるが、人が歩ける高さはないはずだと説明していました。それでも、夜中の二時から三時のあいだ、決まって重たい足音がゆっくり往復する。
ある投稿では、こう書かれていました。
「今日は押し入れが開いていました。ぜんぶ開いていました」
写真も添えられていました。暗い室内で、押し入れの戸が両方とも開いているだけの画像です。中には布団が積まれているだけで、異常は写っていません。
けれど、掲示板の何人かが気づきました。
写真の奥、布団の影のあたりに、黒い丸いものがある、と。
拡大しても判然としない。ただ、布団の隙間から、何かがこちらを見ているようにも見える。
彼女は次の投稿でこう書きました。
「写真を見ました。あれはたぶん顔だと思います。でも、撮ったときは気づきませんでした」
そこから、彼女の文体が変わりました。改行が増え、短い文が並ぶようになりました。
「昼も音がします」
「廊下に出ました」
「部屋の外にいました」
何が、とは書いていません。
最後の投稿は、夜九時台でした。
タイトルは「たぶんこれで最後です」。
本文は短く、途切れるようでした。
「押し入れの中に、いま、います。
さっきまで天井にいたのに、
降りてきました。
音がしないです。
こわいです。
たぶん、みつけられました」
それが最後でした。
その後、彼女の書き込みはありません。掲示板では一時騒ぎになりました。本当に危険なのではないか、通報すべきではないか、作り話だろう、いやあの拙さが本物だ、と意見は割れました。
数日後、管理人が「本人らしきIPアドレスからの投稿は見当たらない」とだけ書き込みました。
やがて話題は薄れ、数年後、掲示板そのものも閉鎖されました。
私は当時、彼女の投稿をすべて保存していました。読みにくい文章を整形し、時系列を並べ替え、無関係なコメントを削除し、彼女の言葉だけが残るようにまとめ直しました。
何度読み返しても、作り話の匂いは感じませんでした。むしろ、恐怖を言葉にしきれない不器用さが、かえって生々しかった。
最近、その保存データを久しぶりに開きました。
ファイル名は変わっていません。更新日時も、当時のままです。内容も、記憶していた通りでした。
ただ、最後の一行だけが、少し違っていました。
以前はこうだったはずです。
「たぶん、みつけられました」
けれど、その下に、改行がひとつ増えていました。
そして、短い一文が付け足されていました。
「あなたも、いました」
私はそんな追記をした覚えはありません。バックアップも確認しましたが、同じ文が入っています。タイムスタンプは当時のままです。
整形したのは私です。文章の位置も、改行の数も、覚えています。あの行は、確かにそこで終わっていました。
あれ以来、そのファイルを開くと、画面の下部にカーソルが点滅しているように見えます。入力欄などないはずなのに、何かを待っているように。
あの掲示板はもう存在しません。
けれど、保存されたテキストは残っています。
そして、読むたびに、最後の行が少しだけ近づいてくる気がするのです。
押し入れの中ではなく。
この画面の向こうから。
[出典:145 :志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A :2026/02/11(水) 22:41:11 ID:Qw4r3Sm20]