不動産管理の仕事をしていると、人の生活が発する匂いに敏感になる。
新築の建材が放つ刺激的な化学臭、長く住まわれた部屋の壁紙に染み付いた煮炊きの油の匂い、ペットの排泄物が床板の隙間で乾いた饐えた匂い。それらは鼻腔を通って頭の奥に貼り付き、その部屋で営まれてきた時間の質量を、言葉よりも正確に伝えてくる。
だが、あの梅雨の終わりに嗅いだ匂いだけは、今も分類できずにいる。熟れすぎた果実が潰れる直前の甘さと、古い線香の煙が混じったような、重く、湿った匂いだった。
六月半ば、雨が三日続いた午後。事務所はクレームの電話で塞がっていた。受話器を肩で挟みながら対応を繰り返すうちに、頭の芯が鈍く痺れてくる。そんな中、自動ドアが静かに開いた。
小柄な老婦人だった。グレーのレインコートに身を包み、傘を畳む仕草だけが妙に丁寧だった。
「あの、鍵をお借りしたいのですが」
物件名はコーポ・サツキ、二〇一号室。保証人の名前と身分証は一致していた。手続き上の瑕疵はない。それでも胸の奥がざわついたのは、彼女の言い方のせいだった。
「中に、いる気がするんです」
原則通り、鍵は貸せないと告げると、彼女は一歩近づいた。その瞬間、あの匂いがした。衣服か、髪か、あるいは体そのものから発せられているような匂いだった。私は同行しての安否確認を提案した。彼女は即座に頷いた。
車内はすぐに匂いで満たされた。会話は途切れがちで、彼女の返答はどれも曖昧だった。ただ一度だけ、ぽつりとこう言った。
「あの子、暗いところが好きでね。狭いところに、よく」
コーポ・サツキは林に縁取られた古いアパートだった。二〇一号室の郵便受けは溢れ、蛹の殻がドアの隙間に落ちていた。嫌な予感が背骨を這い上がる。私は裏手に回ることを提案した。ドアを開ける前に、何かを確認したかった。
斜面を登るにつれ、匂いは濃くなった。発酵した甘さが風に乗って流れてくる。窓のカーテンにはわずかな隙間があり、そこが黒く、艶を帯びて震えていた。光が差し込んだ瞬間、それが無数のハエの集合体だと分かった。
背後で、彼女が息を吐いた。
「増えたのね」
その声には、恐怖も悲しみもなかった。窓を見つめる目は、安堵に近かった。
私は警察を呼ぶと言い、携帯を取り出そうとした。返事はなかった。振り返ると、彼女は微笑んでいた。匂いが一段と強まる。彼女の耳元から、黒いものが一つ、落ちた。
「開けてくれませんか」
その口が、不自然に開いた。中は暗く、奥行きが分からない。羽音が溢れ出し、視界が黒に塗り潰される。私は斜面を転げ落ち、ただ走った。
どれだけ走ったか分からない。気づけば人通りのある道に出ていた。振り返っても、追ってくるものは見えない。それでも匂いは消えなかった。
後日、会社には二〇一号室の件で連絡が入った。中はひどい状態だったという。それ以上の詳細は聞かなかった。聞く必要がなかった。
それから、似た匂いを嗅ぐことが増えた。換気の悪い部屋、古い物件、保証人欄に記された、見覚えのある名前。確かめる勇気はない。ただ分かっているのは、あの匂いがするとき、必ずどこかに隙間があるということだ。
通気口の影、郵便受けの奥、ドアの下。
そして時折、耳元で、あの丁寧な声がする。
「開けてくれませんか」
(了)
[出典:712 :本当にあった怖い名無し:2019/09/30(月) 14:31:58.37 ID:241MUtrr0.net]