警備の仕事に就いたのは二十代の終わりで、深い理由はなかった。
昼の世界から一歩引いた場所で、規則正しく歩き、点検し、異常がないことを確認する。それだけで食っていけるなら悪くない、と思ったのだ。
その工場は湾岸沿いにあった。昼間は白く反射する外壁が、夜になると鈍い灰色に沈む。波の音は防波堤で折り返され、遠くの国道を走るトラックの低音と混じり合って、絶え間ない唸りになる。構内灯は一定の間隔で立っているが、どれも微妙に暗く、影が影を呼ぶような配置だった。風は潮を含み、鉄粉の匂いを舌に残す。
初めてそこに入る前、引き継ぎ資料の最後に挟まっていた一枚の紙が目に留まった。太字で、短い箇条書き。
「必ず二名以上で配置すること」
「巡回中、上方を見上げないこと」
理由欄は空白だった。私は思わず、同じシフトに入る先輩の顔を見た。彼は肩をすくめ、喉の奥で笑った。
「気にするな。昔からそう書いてある」
その笑い方が、妙に乾いていた。
夜の工場は音が少ない。機械は止まり、冷却水の循環音だけが、どこかで細く続いている。床は昼間の熱を失い、靴底から冷えが伝わってくる。巡回ルートは決まっていて、フェンス沿い、倉庫裏、製造棟の外周。どこも見慣れたはずなのに、ここだけは空気が重かった。吸い込むと肺の奥に溜まる感じがして、呼吸が浅くなる。
二人で歩く決まりは、実際ありがたかった。沈黙が続くと、足音と足音の間に妙な間が生まれる。誰かが少し遅れると、その一拍が気になって、無意識に歩調を合わせる。上を見上げるな、と書いてあるのに、頭上の暗さはやけに意識に引っかかる。構内灯が照らすのは足元までで、天井のない空間は、闇がそのまま蓋をしているようだった。
感情と呼べるほどのものではない。ただ、背中の皮膚が薄くなる感覚が続いた。首筋に汗が浮き、冷えていく。耳の後ろがむず痒く、振り向きたくなる衝動を噛み殺す。見上げるな、という文字が、脳裏で何度も反芻される。
三回目の配置の夜だった。相棒は口数の少ない中堅で、歩きながら煙草の話をぽつぽつとする。製造棟の外周を半分ほど回ったところで、微かな音がした。金属が擦れるような、乾いた音。彼も気づいたらしく、足を止める。
「今の、聞こえたか」
私は頷いた。音は上から来た気がした。視線が自然と上に引っ張られる。顎が数センチ浮いた、その瞬間、彼の手が私の襟を掴んだ。
「見るな」
低い声だった。力は強くないのに、首が固定される。私は慌てて視線を足元に戻した。心臓が早鐘を打ち、喉がひくりと鳴る。
「……何なんですか、あれ」
彼は少し間を置いてから、吐き出すように言った。
「会社の説明、聞いてないか」
「あやふやなことしか」
「上に居る。見上げると見えちゃう。そういう言い方しかしない」
言葉は軽いのに、彼の指先は震えていた。巡回を再開すると、音はもうしなかった。ただ、構内灯の下を通るたび、影が一瞬遅れて動く気がした。気のせいだと自分に言い聞かせながら、私は何度も喉を鳴らした。
数日後、別の同僚から昔話を聞いた。警備会社に入ったばかりの頃、その工場に一人で入った新人がいたらしい。人手不足で、規則が形骸化していた時期だという。彼は巡回中、何かに気づいて上を見た。無線が入ったのはその直後だった。意味のない言葉を早口で繰り返し、急に黙った。駆けつけた時、彼は床に座り込み、首を両手で押さえていた。外傷はなく、翌日には普通に喋った。ただ、それ以来、高い場所に行くと必ず吐いた。
「害は特に出てない、って会社は言うけどな」
同僚はそう締めくくった。私は笑えなかった。
決定的だったのは、月末の雨の夜だ。湿度が高く、灯りの周りに小さな虫が集まっていた。相棒と交代で、製造棟の裏に差し掛かる。雨音に混じって、確かに何かが動く音がする。今度は、はっきりとした呼吸のような、規則的な間隔。
彼が私に目配せをした。その視線が、一瞬だけ、上に滑ったのを見逃さなかった。彼の瞳孔が開き、唇が薄く開く。私は反射的に、さっきと同じように襟を掴もうとした。
その前に、彼は言った。
「……ああ」
それだけだった。声は静かで、納得したような響きがあった。次の瞬間、彼はその場に膝をつき、額を床に打ちつけた。鈍い音。私は名前を呼び、肩を揺すった。彼は上を見ていなかった。ずっと床を見ていた。それなのに、涙が止まらず、歯を鳴らしていた。
無線で応援を呼び、彼は運ばれた。診断は過呼吸と打撲。翌週には復帰したが、彼は二度とその工場に来なかった。
その後、私は資料を読み返した。注意事項の紙の裏に、薄く鉛筆で書き足された文字があるのに気づいた。消しかけで、角度を変えないと読めない。
「見上げなくても、見られる」
それが、いつ書かれたものなのかは分からない。
最後の夜勤の日、私は一人で詰所に残った。交代要員が遅れ、規則を破る形になった。時計の針が重く進む。外では雨が上がり、空気が澄んでいる。呼吸音が、やけに大きく聞こえた。
ふと、首の後ろが温かくなった。誰かの息がかかる距離。私は動けず、ただ床を見つめた。視界の端で、影がゆっくりと伸びる。構内灯の明かりとは逆の方向に。
「見ないでいい」
頭の中に、声が直接落ちてきた。耳ではなく、内側で。
その瞬間、理解した。二人以上、という規則の理由を。上を見上げるな、という文言の裏を。彼らは、見られることを避けているのではない。見返されることを防いでいるのだ。
翌朝、私は辞表を出した。理由は家庭の事情、と書いた。誰も引き止めなかった。工場の警備は今も続いているらしい。注意事項も、そのままだ。
夜勤明けに、油と鉄の匂いを嗅ぐと、胸が軋むのは、あの時、確かに私も見られていたからだ。見上げなかっただけで、視線は交わっていた。その証拠に、今でも時々、背中が温かくなる。
(了)
[出典:710 :本当にあった怖い名無し:2019/09/30(月) 14:03:22.02 ID:241MUtrr0.net]