今でも、あの頃の自分の匂いを鮮明に思い出せる。
安物の化学繊維に染みついた古い煙草の臭気。乾ききらない生乾きのワイシャツ。胃の腑の奥から絶えずせり上がってくる酸っぱい胃液の匂い。それらが混ざり合い、身体の表面に薄い膜のように張り付いていた。
社会人一年目の冬だった。
就職先はいわゆるブラック企業で、教育係は三日で消え、引き継ぎ書もないまま膨大な業務だけが残された。朝は始発、帰りは日付が変わってからが当たり前。睡眠は削られ続け、三時間を切る日が二ヶ月も続くと、世界は妙に平坦になる。
色が抜け落ち、すべてが灰色の粒子でできた映像のように見える。耳の奥では、冷蔵庫のモーターのような低い耳鳴りが鳴り続けていた。
当時住んでいたのは、埼玉県郊外の木造アパートだった。玄関を開けると、狭い三和土と、逃げ場のない角度で二階へ伸びる急階段がある。一階部分は存在せず、階段下は外部倉庫という歪な構造だった。
玄関に入るたび、カビと湿気と、誰のものとも知れない古い生活臭が鼻を突く。その匂いを嗅ぐと、安堵より先に徒労感が肩にのしかかる。
その夜も限界だった。
終電で眠りこけ、駅員に起こされ、ふらつく足で夜道を歩いた。頭の中では書類の数字と上司の声が不協和音を立てている。ただ風呂に入って、三時間後のアラームまで気絶したい。それだけを考えていた。
アパートに着き、錆びた鍵を回す。鉄扉が軋んで開く。
暗闇の中に階段が浮かび上がる。スイッチを押しても裸電球は頼りなく明滅するだけで、上の方は影に沈んでいた。
靴を脱ぎ、一段目に足をかけようとした瞬間、視線を感じた。
背後ではない。頭上だ。
首筋が粟立ち、ゆっくりと視線を上げる。
階段の最上段。暗闇と光の境界に、それがあった。
白く乾いた肌。乱れた黒髪。
人間の頭部だった。
悲鳴は出なかった。恐怖が限界を越えると、声は凍る。心臓が暴れ、血が逆流する感覚の中で、頭のどこかが妙に冷えていた。
見間違いだ。瞬きをすれば消える。
そう思って目を閉じ、開いた瞬間。
ゴロリ。
湿った重い音が玄関に響いた。
生首が一段落ちていた。
ゴトン。グシャリ。
肉と髪が床を擦る音。軽やかではない。詰まった重みがそのまま転がる。
切断面が見えた。血管と穴が露出しているのに、血は落ちない。標本のように静止している。
ゴロン、ゴロン。
一定の間隔で距離を詰め、私の目の高さで止まった。
逆さの顔がゆっくり回転し、正対する。
焦点の合わない濁った目が、確かにこちらを見ていた。
唇がわずかに震え、声が落ちてきた。
「……おかえり」
空気を震わせる音ではない。頭の奥に直接貼り付く声だった。
視界が白く弾け、手すりに掴まって呼吸を整える。
顔を上げると、そこには何もなかった。
木の階段と埃だけ。だが鼻孔には鉄錆と腐った土の匂いが残っていた。
誰にも言わなかった。
精神科に行けと言われる方が、あれより怖かった。
それ以来、奇妙な夜が続いた。
残業が続いた日だけ、扉を開けると奴はいる。階段の上に座っていたり、転がり落ちてきたり。言葉はいつも「おかえり」だけ。
三ヶ月もすると、私はそれを備品のように扱い始めた。
踏まないように跨ぐ。足裏に冷気を感じても気にしない。誰もいない部屋より、声をかけてくる何かがいる方が楽だった。
やがて転職し、生活は改善し、アパートを出た。
生首のことは、記憶の奥に沈んでいった。
先週、親友と温泉に行った。
山奥の古い木造旅館。深夜、私は先に風呂を上がり、脱衣所で身体を拭いていた。
横長の鏡の前。
ドライヤーの隙間に、それは置かれていた。
懐かしさすら覚えた。
背後に回り、手を伸ばそうとした瞬間、親友が入ってきた。
「おい……鏡、見ろよ」
鏡を見た。
そこには、こちらを向こうとゆっくり回転する生首が映っていた。
その顔を見た瞬間、言葉が消えた。
鏡の中の生首は、私の顔だった。
疲れ切った、目の窪んだ、見覚えのある顔。
反射的に自分の姿を探す。
バスタオルを腰に巻いた身体は映っている。だが首から上だけが、どこにもない。
鏡台の上の生首が、わずかに笑った。
「……おかえり」
視界が反転し、床が遠ざかる。
親友の叫び声が下から聞こえた。
その声を聞きながら、私は不思議と落ち着いていた。
あの匂いが、また戻ってきていた。
[出典:324 :本当にあった怖い名無し:2020/02/02(日) 19:29:45.56 ID:+tV7KdVao]