ネットで有名な怖い話・都市伝説・不思議な話 ランキング

怖いお話.net【厳選まとめ】

中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

白い画用紙の顔 nc+

更新日:

Sponsord Link

湿ったコンクリート、古びた雑巾、そして微かに漂うチョークの粉の匂い。

それらが混ざり合った独特の空気の中で、私はあの男、S先生のことを思い出す。

私が小学五年生だった時の担任、S先生は、奇妙な男だった。
当時三十代半ばだったはずだが、その皮膚はどこか蝋細工のように血の気がなく、常に薄らとした疲労を顔に張り付かせていた。怒鳴ることもなければ、笑い声をあげることもない。感情の振幅が極端に狭い人間だった。
だが、私たちが彼を記憶しているのは、その陰気な性格のせいではない。彼には奇妙な癖があったからだ。

「フリーズ」するのだ。

授業中、黒板に文字を書いている最中や、給食の配膳を見守っている時、唐突に彼の動きが止まる。
比喩ではなく、完全に停止する。チョークを持つ手は空中で静止し、瞬きひとつせず、呼吸による肩の上下さえも消失したかのように固まる。

それはあたかも、古い映像ソフトが一時停止ボタンを押された瞬間のようだった。
時間は短い時で三十秒、長い時では二分近くに及ぶ。
最初のうちこそクラス中がざわついたが、S先生は何事もなかったかのように再び動き出し、続きの動作を再開する。その滑らかさが逆に不気味で、私たちは次第にその現象を「そういうもの」として受け入れるようになっていた。
実害はない。ただ、先生が止まっている間、教室の空気が少しだけ歪むような、重苦しい静寂が降りてくるだけだ。

あの日のことは鮮明に覚えている。
五月の終わり、初夏の湿気が肌にまとわりつくような日だった。
休み時間、私と友人のKは教室の後方でふざけ合っていた。Kが投げた消しゴムを避けようとして、私が大きくのけぞった時だ。背後の教卓にぶつかり、その衝撃で花瓶が床に落ちた。
ガシャン、という音ではなく、ゴトッ、という鈍い音がした。
運よく花瓶は粉々にはならなかったが、縁の部分が親指の爪ほどの大きさで欠け落ちてしまった。

「やべえ」

Kが青ざめた顔で私を見る。私も心臓が早鐘を打った。S先生は怒鳴らないが、静かに見つめてくる視線には、子供をすくみ上がらせる得体の知れない圧力があったからだ。
私たちは慌てて破片を拾い集めた。幸い、断面は綺麗だった。

「くっつくかもしれない」

私は道具箱から木工用ボンドを取り出した。陶器に使えるかは分からなかったが、白い液体を断面に塗りたくり、欠片を押し付けた。はみ出したボンドを指で拭い、そ知らぬ顔で花瓶を元の位置に戻す。
遠目には亀裂は見えない。私たちは息を吐き、何事もなかったかのように席に戻った。

チャイムが鳴り、国語の授業が始まった。
S先生は教科書を片手に、抑揚のない声で朗読を始めた。その声は眠気を誘う一定のリズムを刻みながら、教室の通路をゆっくりと巡回していく。
私の心臓はまだ落ち着いていなかった。先生が教卓に近づくたび、喉の奥が干上がるような緊張感が走る。
先生が教卓の前に差し掛かった。花瓶の横を通り過ぎようとした、その時だ。

ピタリ、と足が止まった。

いつものフリーズだった。
教卓に置かれた花瓶へ視線を向けたまま、先生は石像のように固まった。
私とKは顔を見合わせ、机の下で膝を震わせた。バレたのか。それとも、ただの偶然か。
教室全体が水を打ったように静まり返る。窓の外から聞こえる運動会の練習の音が、ひどく遠く、現実味のないノイズのように響いていた。
先生の目は見開かれたまま、微動だにしない。その瞳は花瓶を見ているようでいて、花瓶の表面にある「何か」の情報を読み取ろうとしているかのような、無機質な光を宿していた。

一分が経過した。
いつもより長い。冷や汗が背中を伝う。
さらに一分。教室の空気が澱み、時間の流れがそこだけ沼のように停滞しているのを感じた。
やがて、先生の喉仏が小さく動いた。
「……あぁ」
誰に言うでもない、吐息のような声が漏れた。
それと同時に、先生の身体に再び時間が流れ出した。彼は何事もなかったかのように歩き出し、朗読の続きを再開した。
だが、私には分かってしまった。
先生が通り過ぎたあと、花瓶を盗み見ると、ボンドで接着したはずの欠片が、完全に、継ぎ目なく修復されていたのだ。
まだ乾いていなかったはずのボンドの白い痕跡さえ消え失せ、最初から割れてなどいなかったかのように、花瓶は完璧な姿でそこに在った。

その瞬間、私の頭の中で何かが繋がり、そして背筋が粟立つような興奮に変わった。
先生は、気づいてフリーズしたのではない。
彼は「バグ」を見つけて、処理落ちしていたのだ。
そして再起動した時、世界はあるべき姿に「修正」されていた。
S先生はこの教室の、いや、この世界の管理者か何かなのではないか。現実と食い違うエラーを見つけると、思考リソースをすべてその修正に回すために、肉体の動きを止めてしまうのではないか。

放課後、私はKにその仮説を話した。最初は馬鹿にしていたKも、花瓶の傷が完全に消えていることを確認すると、青白い顔をして、しかし口元には歪んだ笑みを浮かべた。
「じゃあさ」
Kは声を潜めた。
「もっとバグらせたら、どうなるんだろうな」
子供特有の無邪気さと、それ故の残酷さが、私たちの胸に黒い炎を灯した。
私たちはS先生を、人間としてではなく、反応を楽しむための実験動物、あるいは攻略すべきゲームのシステムとして見なし始めたのだ。

翌日から、私たちの「実験」が始まった。

それは些細な違和感の植え付けだった。
教室の後ろに貼られた習字の掲示物。その画鋲を一つだけ外し、紙の端を微妙にめくれさせた。
掃除用具入れの扉を、完全に閉めず、五ミリだけ隙間を空けておいた。
黒板消しの並び順を、色違いで交互に入れ替えた。
どれも、注意されれば「忘れていました」で済む程度の微細な変化だ。しかし、その効果はてきめんだった。

S先生のフリーズ頻度は劇的に増えた。
一日に一回あるかないかだった停止が、三回、五回と増えていく。
教室に入ってくるなり、めくれた習字の前で一分間停止する。
掃除用具入れの前で、雑巾がけの姿勢のまま三十秒停止する。
そのたびに、画鋲はいつの間にか刺さり直し、扉は密閉され、黒板消しは整頓された。
先生が手を触れたわけではない。フリーズが解けた瞬間、世界が「パチッ」と音を立てて切り替わるように、整合性が取られていくのだ。

私とKは、その現象を目の当たりにするたびに、暗い喜びを覚えた。
自分たちが作った小さな歪みが、あの大人の、教師という絶対的な存在を機能不全に陥らせている。その支配感がたまらなく心地よかった。
しかし、回数を重ねるごとに、S先生の様子はおかしくなっていった。
顔色は以前にも増して土気色になり、目の下にはどす黒い隈が刻まれた。
授業中の声は擦れ、時折、言葉の意味が繋がらない独り言を漏らすようになった。
「……リソースが足りない……」
「……描画が……間に合わない……」
最前列の席の子が、フリーズから復帰した直後の先生がそう呟くのを聞いたという。

それでも私たちは止まらなかった。
むしろ、先生が憔悴すればするほど、私たちの好奇心は肥大化した。
もっと大きなバグを。
もっと処理しきれない矛盾を。
先生がどこまで耐えられるのか、その限界を見たかった。
今にして思えば、私たちは何かに取り憑かれていたのかもしれない。教室という閉鎖空間の中で、善悪の境界線が溶解し、ただ「反応」を求めるだけの刺激中毒になっていたのだ。

そして、夏休みが明け、台風シーズンが到来した九月のことだった。
あの日、大型の台風が過ぎ去った直後の週末、私とKは増水した川へ遊びに行った。
濁流が削り取った河川敷には、上流から流されてきた様々なゴミが打ち上げられていた。タイヤ、看板、折れた家具。
普段は見ることのない非日常的な光景に、私たちは宝探しのような気分で泥の中を歩き回った。
腐った植物の匂いと、生温かい泥の匂いが鼻をつく。
葦がなぎ倒された岸辺の茂みを掻き分けた時、Kが声を上げた。
「おい、なんだこれ」

Kが指差した先。泥にまみれた流木の下に、何かが挟まっていた。

私は近づき、それを木の枝で突いて引っ張り出した。
それは、人形だった。
だが、市販のリカちゃん人形やぬいぐるみの類ではない。
三十センチほどの大きさで、白い布で作られた人型だった。手足は棒のように簡素で、関節もない。
不気味だったのは、その顔だ。
目や鼻、口が、画用紙を切り抜いて作られ、強力な糊のようなもので布地にベタリと貼り付けられていたのだ。
水に浸かっていたはずなのに、画用紙の顔はふやけることも剥がれることもなく、鮮やかな色彩を保っていた。
その目は極端に大きく、黒目の部分が上下左右バラバラの方向を向いていた。口は三日月型に切り取られた赤い紙で、耳まで裂けたように笑っている。
稚拙な工作に見えるが、子供が作ったにしては、妙な執念が感じられた。
「気持ち悪……」
Kが顔をしかめたが、その目は笑っていた。
「これ、使えるんじゃね?」
私は人形を見下ろした。泥の匂いに混じって、なぜか古い畳のような、乾いた埃っぽい匂いがその人形から漂っていた。
直感的に、触れてはいけないものだと思った。これはただのゴミではない。誰かが、何かの目的を持って作り、そして川に流した「穢れ」のようなものだ。
だが、その時の私にとって、それは最高の「バグ」素材にしか見えなかった。
教室という日常空間に、この異様な呪物を紛れ込ませる。
修復不可能なほどの強烈な違和感。
これを見たら、S先生はどうなるだろう。
ただのフリーズでは済まないかもしれない。
期待と不安がないまぜになった粘着質な感情が、私の腹の底で渦巻いた。

私たちはその人形を川の水で軽く洗い、ビニール袋に入れて持ち帰った。
帰り道、袋の中の人形が、ガサリ、ガサリと音を立てるたびに、背筋に冷たいものが走ったが、私たちはそれを無視した。

翌月曜日。

私たちはいつもより早く登校した。
まだ誰もいない、朝の光が青白く差し込む教室。
私たちはS先生の私物入れになっているロッカーを開けた。
中にはチョークの予備やファイル、そして先生がいつも飲んでいる頭痛薬の瓶が入っていた。
Kが袋から人形を取り出す。
乾いた人形は、昨日よりもさらに不気味さを増していた。画用紙の目が、じっとこちらを見ている気がする。
私たちはその人形を、ロッカーの一番奥、教科書の束の上に鎮座させた。
ロッカーの扉を閉める。
カチン、という金属音が、静寂な教室にやけに大きく響いた。

始業のチャイムが鳴るまで、あと十分。
教室は登校してきた生徒たちの話し声で満ちていた。休日の出来事、テレビの話、宿題の答え合わせ。ありふれた日常の騒音だが、私とKだけは、その音の膜の裏側で、張り詰めた糸のような緊張を共有していた。
私たちの視線は、時折黒板横のロッカーへ吸い寄せられる。
あの鉄の扉の向こう、暗闇の中に、あの人形が座っている。
まるで時限爆弾を仕掛けたテロリストのような気分だった。S先生が扉を開けた瞬間、どんな顔をするだろう。あの無表情が崩れ、見たことのない「バグ」が発生する。その瞬間を想像するだけで、指先が微かに痺れた。

私の通っていた小学校は、校舎が二棟に分かれていた。
一階から四階まであり、一~四年生の教室と職員室が入っている「東館」。
そして、渡り廊下で繋がれた先にある、五~六年生の教室と特別教室が入った「西館」。
私たちの五年二組は西館の三階にあった。教室の窓からは、中庭を挟んで向こう側の東館がよく見える。特に、二階にある職員室から出てきた教師が、渡り廊下を渡ってこちらへ向かってくる様子は、格好の監視対象だった。

八時二十分。

予鈴が鳴り、廊下で遊んでいた生徒たちが教室に戻ってくる。
私とKは窓際に立ち、食い入るように東館を見つめていた。
「来た」
Kが短く呟く。
職員室のドアが開き、S先生が出てきた。
遠目にもその歩調が重いのが分かった。猫背気味の背中。右手に抱えた出席簿と教材の束。俯き加減で、足元のタイルを一枚一枚確認するかのような、あのお馴染みの歩き方だ。
先生は渡り廊下に差し掛かった。
朝の陽射しが、コンクリートの渡り廊下に斜めに差し込んでいる。光と影の縞模様の中を、先生の影がゆっくりと横切っていく。
「……なんか、変じゃないか?」
私が言うと、Kも無言で頷いた。
先生の動きが、妙にカクカクしている。
一歩踏み出すたびに、一瞬だけ停止しているように見えるのだ。まるで、通信環境の悪いオンラインゲームのキャラクターが、ラグを起こしながら移動しているような。
それでも先生は前進し続けた。渡り廊下の中ほどを過ぎ、西館の階段へと繋がる踊り場に消える。
ここから先は死角だ。先生は階段を上がり、三階の廊下を歩いて、あと二分もすれば教室の前の扉を開けるはずだった。

私たちは席に戻り、その時を待った。

息を潜める。心臓の音が耳の奥でうるさいほど響く。
教室のざわめきが徐々に収まり、朝の会の準備が整っていく。日直が黒板の前で号令をかけるタイミングを計っている。
あとは、先生が来るだけだ。

一分が過ぎた。
扉は開かない。
二分。三分。
教室の空気が少しだけ緩む。「遅いな」「トイレじゃね?」と軽口を叩く声が聞こえる。
だが、私とKは笑えなかった。
東館からここまでは、どんなにゆっくり歩いても三分あれば着く。途中で誰かと話し込んだとしても、五分もあれば十分だ。
五分が経過した。
十分が経過した。
教室のざわめきが、再び大きくなり始めた。しかし今度のそれは、活気のある騒音ではなく、不安を含んださざ波のような音だった。
先生が来ない。
S先生は、時間には厳格だった。というより、チャイムというシステムに従順だった。一秒の狂いもなく教室に入ってくるのが常だった彼が、十分も遅れるなどあり得ないことだった。

「見てくる」
学級委員の女子が立ち上がり、廊下へ出て行った。
数分後、彼女は青ざめた顔で戻ってきた。
「いない。階段も、廊下も、トイレも見てきたけど、誰もいない」
教室が水を打ったように静まり返った。
西館の三階には、私たち五年二組と一組、そして図工室しかない。一組からは授業の声が聞こえている。
先生は、東館の渡り廊下を渡り終え、西館に入った。そこまでは私たちがこの目で確認した。
なのに、その先の階段から教室までのわずかな区間で、煙のように消えてしまったのだ。

「おい……」
Kが私の袖を引いた。その指は冷たく、小刻みに震えている。
「あいつ、人形に気づいたのかな」
「まさか。まだロッカーを開けてないだろ」
「でも、ここまで来れないってことは……」
Kの瞳に、原初的な恐怖の色が浮かんでいた。
「ここが『処理落ち』してんじゃねえの」

その言葉を聞いた瞬間、背筋に悪寒が走った。

処理落ち。

もしS先生が、この世界のエラーを修正する管理者なのだとしたら。
私たちがロッカーに入れたあの異様な人形は、この教室という空間そのものを「読み込み不可能」なエラー領域に変えてしまったのではないか。
先生は階段の踊り場でフリーズしているのかもしれない。あるいは、バグだらけのこの教室に入ろうとして、システムにはじき出されたのか。
窓の外を見る。空は晴れ渡っているのに、校庭の景色がどこか色あせて見えた。現実感が希薄になり、自分たちが座っている椅子や机が、書割のセットのように頼りなく感じられた。

結局、S先生が現れたのは、それから三十分以上が経過してからだった――いや、現れたのはS先生ではなかった。
ガラリ、と前の扉が乱暴に開いた。
入ってきたのは、汗だくになった教頭先生だった。
いつも冷静な教頭が、ネクタイを緩め、髪を振り乱している。その目には、焦燥と、隠しきれない困惑が浮かんでいた。
「えー、みんな、静かに」
教頭の声は上ずっていた。
「S先生は、急な体調不良で、今日は早退することになった。今日一日は、私が代わりに見るから」
教室中が「えー」とどよめいた。
だが、私には分かった。教頭は嘘をついている。
教頭の視線が、泳いでいた。そして時折、教卓の横の、あのロッカーの方を忌々しげに睨んでいたからだ。

その日の授業は自習のようなものだった。

教頭は教卓に座り、書類仕事をしていたが、貧乏ゆすりが止まらなかった。
私とKは生きた心地がしなかった。
ロッカーの中の人形。あれを回収しなければならない。もし誰かが見つけたら、指紋や何かで私たちが犯人だとバレるかもしれない。それ以上に、あんなものをこのままにしておきたくなかった。
放課後、生徒たちが帰り支度を始める中、私たちは隙を伺った。
教頭が黒板を消している一瞬の隙をつき、私はロッカーに駆け寄った。
音を立てないように扉を開ける。
心臓が口から飛び出しそうだった。
中を見る。

あった。
一番奥、教科書の上に、あの白い人形が座っている。
画用紙の目は、暗闇の中でらんらんとこちらを見つめていた。
だが、違和感があった。
朝入れた時よりも、位置が手前にずれている。
いや、違う。
人形の「首」の向きが変わっていた。
朝は正面を向いていたはずの顔が、真横、九十度右を向いて、扉が開くのを待ち構えていたかのようにこちらを凝視していたのだ。
「ひっ」
短い悲鳴を噛み殺し、私は人形を掴んで自分の鞄に押し込んだ。
まるで氷の塊を掴んだかのように、人形は芯まで冷え切っていた。

翌日、S先生が学校を辞めたという知らせがあった。
ホームルームで校長先生が淡々と事実を告げたが、詳しい理由は説明されなかった。
だが、噂はすぐに広まった。
職員室で電話番をしていた六年生が、先生たちの会話を聞いてしまったのだ。
あの日、S先生は渡り廊下を渡った後、西館には入らず、そのまま引き返して校長室に直行したらしい。
そして、顔面蒼白で、脂汗を流しながら、こう叫んだという。

「こんなところ、やってられるか!」

普段の物静かなS先生からは想像もつかない激昂ぶりだったそうだ。
「整合性が取れない」「描画範囲外からの干渉だ」「バグだらけで吐き気がする」
意味不明な言葉を喚き散らし、制止する教頭を振り切って、そのまま荷物も持たずに学校を飛び出して行ったのだという。

私たちは戦慄した。

先生は、ロッカーを開けてすらいなかった。教室に入ってすらいなかった。
それなのに、彼は「感知」したのだ。
教室というマップに配置された、あの人形という致命的なエラーオブジェクトを、エリアに入る前のロード画面の段階で察知し、そのあまりの異常さに、プレイヤーとしての(あるいは管理者としての)放棄を選んだのだ。

これで終わりなら、まだよかった。
ただの不思議な話で終わるはずだった。
だが、私たちが持ち帰った人形には、まだ続きがあった。
S先生がいなくなった教室で、本当の「バグ」が浸食を始めていたことに、私たちはまだ気づいていなかった。

S先生が学校を去った後も、私たちは回収した人形を処分できなかった。

人形はビニール袋に入れられ、Kの家の物置の奥深くに隠された。しかし、それを燃やすことも、川に戻すことも、私たちにはできなかった。
それは、私たちが作り出した、あるいは私たちの悪意がこの世界から引きずり出した、特別な「トロフィー」のようなものになってしまっていたからだ。
先生を辞めさせた。あの世界の修正者を機能停止に追い込んだ。その事実が、私たちに一種の全能感を与えていたのだ。

しかし、日常は徐々に浸食され始めた。

最初に気づいたのはKだった。
「なんかさ、音が変なんだよ」
ある日の放課後、彼が小さな声で言った。
「教室の隅っこにいると、時々、変なノイズが聞こえないか?」
私は耳を澄ませてみたが、聞こえるのは遠くの運動部のかけ声と、蛍光灯のわずかな唸りだけだ。
「気のせいだろ」
そう返したが、その日から私自身も意識するようになった。
特に誰もいない夕暮れの教室。鉛色の光が差し込む中で、耳鳴りとは違う、ごく微細な「カチッ」という音が聞こえることがあった。
それは、S先生がフリーズから復帰した瞬間に、世界が整合性を回復する時に発していた「切り替わり」の音に酷似していた。
まるで、誰かが私たちの知らないところで、小さなエラーを修正し続けているかのように。

時間が経つにつれて、奇妙な現象は視覚にも及んだ。
廊下のワックスがけされた床に、自分の影が落ちている。その影を注意深く見つめていると、ほんの一瞬、影の輪郭がブレるのだ。
あるいは、文字を書き写している最中、手元のノートの罫線が、瞬間的に一本だけ消失し、すぐに復活する。
それはすべて一秒にも満たない、目の錯覚だと片付けてしまえるレベルの微細なノイズだった。だが、一度気づいてしまうと、世界全体が薄い膜を隔てたように頼りなく見え始めた。
まるで、パソコンのメモリ不足で、背景のレンダリングが間に合わなくなり、テクスチャの一部が剥がれたり、ポリゴンが崩れたりしているような感覚だった。

S先生がいなくなって、この世界には「修正者」がいなくなったわけではなかった。
ただ、以前よりも修正能力が大幅に低下し、私たち自身の知覚が、その修正の過程を捉えるようになってしまったのではないか。
あの人形――「致命的なバグ」を、私たち自身が日常に持ち込み、そのまま隠し持っていることで、この世界の根本的な整合性が揺らぎ続けているのではないか。

私たちは恐怖と、もはや贖罪とは呼べない執着から、時々Kの家の物置へ人形を見に行った。

人形は何も言わない。ただ、座っている。

だが、物置の扉を開けるたびに、人形の纏う匂いが強くなっている気がした。
最初の泥と埃の匂いではなく、もっと古い、澱んだ記憶のような匂いだ。
そして、その顔。画用紙で貼り付けられた、大きく見開かれた目と、耳まで裂けた赤い口。
初めて見た時、バラバラの方向を向いていたその瞳が、見るたびに、わずかに、しかし確実に、私たちの方へ向きを変えているように感じられた。
それは、S先生が私たちに向けた、あの無機質な、情報処理のための視線に酷似していた。

ある日、私は人形を見て、ついに決定的な「バグ」に気づいた。
貼り付けられた画用紙の目や口は、糊で固定されていたはずだ。
だが、その輪郭が、ほんの少しだけ、布地に「滲んで」いたのだ。
まるで水彩絵の具が紙に吸い込まれていくように、画用紙の色素が白い布地全体に、目に見えないほどゆっくりと拡散し始めている。
それは、人形が「布と紙の合成物」という違和感のある状態から、「布地そのものに描かれた顔」という、より自然な状態へと、自己修正を始めているかのように見えた。
人形自身が、この世界に受け入れられるように、自らをアップデートしている。そう考えると、全身の毛穴が開くような戦慄を覚えた。

その夜、Kは私に電話をかけてきた。声は掠れ、ひどく混乱していた。
「おい、思い出したんだよ」
「何をだよ」
「あの時、川で拾った時。人形の顔」
Kは激しく呼吸を繰り返した。
「あの時、人形の顔はまだ画用紙じゃなかったんだ。いや、画用紙は貼り付けられてたけど、その画用紙には何も描かれてなかった」
「何を言ってるんだ。目も口もあっただろ」
「いや、なかった。貼り付けられてたのは、白い画用紙だけだったんだ。それが……ロッカーから回収した時、あんな顔になってたんだ」

私たちは、あの人形が、私たちの視線が当たらない間に、誰かの顔を「トレース」して顔を作ったのではないかという結論に至った。
では、誰の顔か。
S先生か。それとも、私たちか。

私はすぐにKの家へ向かった。物置の鍵を開け、奥へ進む。

人形を包んだビニール袋は、僅かに湿り気を帯びていた。
私は袋を開け、人形の顔をライトで照らした。
画用紙の顔は、完全に布地に馴染み、最早どこからが画用紙で、どこからが布なのか区別がつかない。
そして、その顔つき。
笑っているわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、大きく見開いた瞳が、私の顔の輪郭を、私の存在の全てを、正確に捉えようとしている。
それは、S先生が、フリーズする直前に見せた、あの情報収集者の目だった。

私は人形を掴んで、そのまま強く握りつぶそうとした。
その時、私の頭の中で、S先生が最期に発した言葉がこだました。
「こんなところ、やってられるか!」

私とKの悪意は、システムそのものの保守を引き継ぐという、最も皮肉で、最も根源的な形で、私たち自身に返ってきた。数秒間、意識だけがその一点に集中し、私の脳のリソースが、その歪みの「修正」に充てられる。

そして、今。

私は、あの人形が置かれていた場所で暮らしている。Kの家の物置だ。
壁には、画用紙を切り抜いた顔がいくつも貼られている。怒っているようにも見え、泣いているようにも見え、どれでもないようにも見える。

夜になると、私はそれらを一枚ずつ剥がし、並べ直す。
理由は分からない。ただ、そうしないと落ち着かない。

窓の外を人が通り過ぎるとき、視線を外せなくなることがある。
ほんの一瞬、その顔が白く平らに見えるからだ。
描かれていないままの画用紙のように。

気づくと私は、次に貼る顔の形を考えている。
どんな目で、どんな口なら、自然に見えるのかを。

外では今日も、人が通り過ぎていく。
誰もこちらを見ない。
ただ、待っている。

(終)

[出典:371 :本当にあった怖い名無し:2021/08/14(土) 02:18:18.75 ID:VxiB/dnv0.net]

Sponsored Link

Sponsored Link

-中編, 奇妙な話・不思議な話・怪異譚, n+2025

Copyright© 怖いお話.net【厳選まとめ】 , 2025 All Rights Reserved.