三十年ほど前のことだ。
とある僧侶の家に招かれ、夕餉をごちそうになった。
陽はすでに傾き、居間には薄橙色の灯りだけが残っていた。膳を囲みながら、ふと視線が隣室へ引き寄せられた。そこには、色のついていない大きな木彫りの仏が安置されていた。孔雀の背に坐す姿。孔雀明王だろうか、と一瞬思ったが、確信はなかった。ただ、部屋の空気がそこだけ重く沈んでいるように感じられた。
食事を続けながらも、どうしても目が離れない。
孔雀の翼の輪郭に、空気が二重に重なったような違和感が生じていた。やがてそれは、半透明の、もう一対の翼として浮かび上がった。木彫りの翼とずれて重なり、ふわり、ふわりと、静かに羽ばたいている。
音はない。
だが、薄闇がわずかに震え、誰かの呼吸に似た微かな脈動だけが伝わってくる。
夢でも、酒のせいでもない。
その場にいるあいだ、翼はたしかに動き続けていた。
辞去したあと、同行者にそれとなく話してみたが、怪訝な顔をされただけだった。
「何を言ってるんだ」という反応だった。
——ああ、これは自分だけが見たものだったのだと、そのとき悟った。背中をなぞるような冷えが残った。
それから長い年月が過ぎた。
偶然、その僧侶の寺に関わりのあった人物と知り合う機会があり、ふと思い出したように、あの夜の話を軽く切り出した。
相手は少し黙り込み、曖昧に笑った。
「……あの人ね、いろいろあったらしいよ」
詳しいことは語られなかった。ただ、目を伏せたまま、ぽつりと続けられた一言だけが残った。
「仏さんも、居心地が悪かったのかもしれないね。逃げたがってた、とかさ」
冗談めいた口調だった。
なのに、その言葉は妙に引っかかった。
——あの半透明の翼。
——あの静かな羽ばたき。
もし、あの家に何かから逃げたくなるほどの歪みがあったのだとしたら。
なぜ、それを自分のような、何の縁もない外部の人間にだけ見せたのか。
そう考えた瞬間、胸の奥に重い余韻が沈んだ。
「そんなものを、俺に見せてどうするつもりだったんだ」
答えは今も出ない。
羽音のような気配だけが、あの夕暮れの薄闇の中で、いまだ宙に漂っている。
(了)
[出典:1309 :本当にあった怖い名無し:2021/04/15(木) 13:07:34.75 ID:lafmmzj50.net]