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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

視界の縁で揺れたもの n+

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暖房の乾いた風と、廊下に漂うアルコールの蒸気がまざり、胸の底に鈍い膜を張ったような感覚が残っている。

その日、登校の支度をしていた時、視界の左端を細いものが掠めた。糸を張ったような黒い線が一瞬で溶け、光の粒にほどけて消えた。瞬きすればいつもの部屋に戻るのに、そこだけだけ温度が違うように冷えていた。
額の皮膚がきゅっと引きつり、指先がかすかに震えていた。

母に言おうとして、声が喉で折れた。いつもなら冗談交じりに返すのに、その日は胸の奥でざらつく気配だけが重く沈んでいた。夕方、また同じ影を見た。今度は廊下の天井近く、蛍光灯の光を遮るように。目を凝らせば黒い膜のような、でも輪郭が揺れている。足首にひやりとした空気が絡みついた。

母に訴えると、包丁を置いたままこちらを睨んだ。
「アンタ、またあんな番組ばっか見てるからよ。くだらない妄想に浸って……」
その声の硬さに、頬の内側を噛んでしまった。鉄の味が広がる。

影を見た後、決まって頭の奥がじわりと熱を帯びるようになった。脳の芯を親指で押されているような、鈍い拍動が続く。朝起きても体が重く、背中に誰かの手を置かれたような圧が残る。

それを話すたび、母はさらに語気を強めた。
「怠けたいだけでしょ。学校に行きたくないから変なこと言って……」
そう言いながら私のコレクションを段ボールに放り込んだ。深夜に録画した心霊特集のディスクや古いオカルト誌が、何も言い返せない音を立てて床に転がる。
「気持ち悪いのよ、こんなの。ぜんぶ捨てる」
どさり、と袋の口が閉じられた瞬間、耳鳴りがふっと消え、代わりに部屋の温度が数度下がった。

翌朝、玄関に立つと、視界の端でゆらりと光が揺れた。黒い影とは違う。淡い金色に近いものが指先で弾かれた線のように走った。心臓の拍動と同期するように、こめかみが脈打つ。

その日は二限目の途中で、急に黒板が波打った。チョークの粉が白い靄みたいに見え、耳の奥で低い唸りが広がった。立ち上がろうとした瞬間、床の色が遠ざかり、机の縁が跳ね上がって見えた。

誰かが私の名前を呼んだ気がしたが、口が動かず、指先の感覚も薄れていった。
遠くから、教室のざわめきが水中の音のように変形し、視界の中心に黒い輪が縮んでいく。

目を開けると、白い天井の端がわずかに震えていた。

蛍光灯の唸りが胸の奥に重く沈み、鼻孔に消毒液の冷たい匂いが入りこむ。
体を動かそうとしたが、腕は湿った布のように重く、視界の右側だけ薄く霞んでいた。

うっすらとカーテンが揺れ、その向こうに誰かの気配が立っている。母だと思った瞬間、胸がこわばり、喉がひりついた。声を出そうとしても空気ばかりが漏れる。
足先に触れる冷気は、さっき倒れた時の床の温度と同じで、そこだけ時間が止まったように動かない。

看護師の声が近づき、点滴の管がかすかに揺れた。
「しばらく安静にしていれば大丈夫ですよ」
その柔らかな声の背後で、母が息を呑む気配があった。言葉を探すように唇がかすかに震える音が伝わる。

母の影がカーテン越しに伸び、大きく揺れて少し縮んだ。
「……気づいてあげられなかったのね」
その言葉に、胸の奥の痛みが別のかたちで膨らんだ。怒鳴っていた時の母の声ではない。
だが、あの黒い影を見た日の冷えが、いま再び背骨にまとわりつく。

診察を終え、医師が部屋を出ると、病室にひとつの静けさが落ちた。
母は椅子に座ったまま、手を固く握りしめている。爪が掌にくい込み、白くなっていた。
「アンタ……最初に言った時、どうして、もっと……」
泣き声ではなく、乾いた息が漏れた。
私は答えようとしたが、言葉を形にする前に、視界の端をまた何かが掠めた。

黒い影でも金色の線でもない。
もっと薄い、灰色の膜のようなものが、病室の空気の層をすり抜けて滑った。
この病室ではじめて見る種類の揺れだった。
瞬きをすると、それは窓の外に吸い込まれるように消えたが、残り香のように冷たい気配だけが室内に滞留した。

母はそれに気づいていないようだった。
ただ、私の顔色を見つめて「無理に話さなくていいから」と言う。
その声がやけに遠く聞こえる一方、点滴の落ちるリズムは耳の奥で鮮明に響いた。

夜、看護師の巡回が終わる頃、薄暗がりの中で目を開けると、枕元のあたりがじわりと湿ったように光を弾いていた。
そこに、輪郭の崩れた影が立っている。
立っている、としか言いようがないが、足元は床についていない。
空気の縫い目のように、そこだけ世界が歪んでいた。

呼び鈴を押す指が動かず、声も出ない。
体が鉛のように沈み、胸骨の内側を冷風がなぞる。
影は音も立てず、頭の上にふっと乗りかかるように近づいた。
その瞬間、こめかみの奥が熱く膨れ、視界が粒子状にほどけた。

影が私の顔に手を伸ばした……そう思った時、逆に私の方の手が動いた。
意思とは別の、もっと深い層から引っ張られるような動きだった。
指先がその影に触れた瞬間、影のほうが怯むように震え、薄煙のようにほどけた。

胸の奥に、なにかが入り込んだような圧が残った。
自分の脈ではない拍動が、心臓の裏側でひっそりと脈打っている。
呼吸のリズムに合わせて、影の残滓が内側でゆっくり膨らんで縮む。

明け方、看護師がカーテンを開けた時、その微かな拍動はまだ体内で続いていた。
母は椅子で膝を抱えたまま眠っており、瞼の裏に涙の跡が乾いていた。
私は目を閉じたまま、胸の奥の異物感だけを数えていた。
影が消えたのか、それとも入れ替わったのか——その判断がつかないまま、カーテン越しに射し込む薄光が皮膚を鈍く刺した。

朝の回診が終わった直後、胸の奥の拍動がひときわ強く跳ねた。

看護師がカーテンを閉じると、部屋に柔らかい影が沈み込み、その濃淡の中に微かな揺れが浮いた。
昨日の灰色とも違う、もっと輪郭がはっきりしたもの。
濡れた布の端をつまんで引き寄せるように、ゆっくりこちらへ寄ってくる。

呼吸を整えようとしても胸が詰まり、指先が薄く痺れる。
「また見えるの……?」
母の声が背後で震えた。
振り返ると、母の顔は強い光のせいで白く抜け落ち、瞳だけが深く沈んで見えた。

影は母には見えていない。
けれど、その進む軌道だけが妙に正確で、私の胸の真上へすうっと降りてきた。
点滴の滴下が一瞬止まったような錯覚が生じ、室内の空気が薄くなる。

影は私の胸に触れようとして——ふと動きを変えた。
まるで“戻る”ように、母のほうへ向き直った。
その瞬間、胸の裏側で脈打っていた感覚がすっと消えた。
代わりに、母の肩越しに立つ“別の影”の気配が立ちのぼる。

私は息を飲んだ。
影は一つではなかったのか。
それとも最初から“ここ”にいたものが、姿を変えて現れたのか。

母が私の手を握ると、その温度の奥に、不自然なくらい冷たいもう一つの温度が混じった。
それは私のものではなく、母の皮膚の下から立ちのぼる温度だった。
病室の光がまた揺れ、母の影が壁に伸びる。
その影の形が、ほんの一瞬——昨日私の枕元に立っていた“あの輪郭”と重なった。

「……アンタ、もう大丈夫だから」
母はそう言うが、その声はどこか遠かった。
私の指を握る力はやけに強く、爪先が触れるたび、心臓の裏側に冷たい膜が張るような感覚が戻ってきた。

私は気づく。
昨日、影に手を伸ばした時、私の体に入り込んだ拍動。
あれは“逃げ込んだ”のではなく、“逃げられた”のかもしれない。
影は私の体ではなく、もっと温かくて、もっと隙のある場所へ移ろうとしたのだ。

影が母へ移ったのか。
それとも、母の中に“最初から”何かがあって、私が見ていたものはその痕跡だったのか。

母が身を寄せるたび、私の肩口に当たる息が、以前より冷たく感じる。
その冷たさは、見えていた影の体温と同じだ。

「退院したら、好きなもの……また買い直せばいいのよ」
そう言って笑う母の声は優しいのに、背後の壁に映る影は微かに揺れ、首の位置が母の動きと一致していなかった。
影だけが、私をじっと見下ろしている。

私は目を逸らした。
気づかないふりをするしかない。
あの影がいま、どちらの体を選んだのか——判断する勇気が、私には残っていなかった。

けれど、母が病室を出た瞬間、床に落ちる影の縁がしていた微かな震えが……
ぴたりと止まった。

そこで私は、初めて胸の奥の拍動が完全に消えたことに気づいた。
入れ替わったのは私ではなく、母なのかもしれないと悟った時、背中を冷風がなぞり、点滴の滴下が再び規則正しく落ちはじめた。

ただ、翌朝の回診の時——
部屋に差し込む光の中で、医師の白衣の陰に、あの金色の線がひとつ、揺れていた。
母だけでは足りなかったのか、それとも、見えているのは私だけなのか。

退院後の世界で、これがどう続くのか想像するのもためらわれる。
けれど、あの金色が揺れた瞬間、胸の奥で、消えたはずの拍動がかすかに笑った気がした。

——それが“反転”の始まりだと、まだ誰も知らない。

[出典:127 :あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/10/25 13:31]

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