四つか五つの頃だったと思う。左手の中指に、粒みたいな盛り上がりがひとつできた。
爪の付け根に近い場所で、触れると冬の石鹼みたいに乾いた感触が残った。
放課後の教室で、こっそりそれを押しては離すのを繰り返していた。粉みたいな匂いが指先に移る。薬は塗り続けていたが、立ち上がった芯は引っ込まず、むしろ硬さだけを増していった。
机の角にぶつけても痛みはなかった。むしろ弾むような無感覚があって、幼い自分はそれを面白がっていじり続けた。
そのうち、ひとつだった粒がふたつになり、知らぬ間に三つになった。手洗い場の銀色の蛇口に映った指に、余計な影が増えていたのを覚えている。
母は何度も病院へ行けと言ったが、白い部屋の薬品の匂いが苦手で、目を逸らした。小学生の自分には、その小さな変化が、後でどれほどの重さに化けるか想像もできなかった。
卒業間際、両手の甲に粒が群れを成すように広がった。朝の光を受けると、盛り上がりのひとつひとつが薄い影を落とし、皮膚の地図が書き換えられていく気がした。
学校ですれ違う友達の視線が、指先ではなく顔のほうへ移ったのは中学に上がった頃だ。鼻梁の脇に、ある朝突然、指と同じ質の膨らみが浮いた。指で触ると、乾いた芯が僅かに動いた。
鏡を見るのが嫌になった。
浴室の曇ったガラスに映る自分は、輪郭だけは自分なのに、表面は別の誰かの皮膚だった。
人の目が怖いのではなく、視線が触れるたびに、自分の皮膚が相手の瞳に貼りつくような錯覚が起きるのがつらかった。
その頃、母が言った。
「近くにね、いぼの神さまが祀られてる小さな社があるらしいよ。そこの水を塗ると、治るって……誰かが言ってた」
語尾が揺れていた。母自身、信じているわけではなかったのだろう。でも追い詰められていた自分には、その曖昧な声でさえ綱のように聞こえた。
夕方、家の裏の坂をひとりで降りた。空気が湿っていて、草の匂いが強かった。
細い道の突き当たりに、見覚えのない鳥居が立っていた。柱は黒ずみ、表面に粉が吹いている。
鳥居をくぐると、音が途切れた。背後の車の音も、風の通りも急に遠くなった。
社は手を伸ばせば届くほどの狭さで、隣に石鉢が置かれていた。底に溜まった水は、夜明け前みたいな冷たさを帯びていた。
指先にその水を触れさせた瞬間、ほんの微かなざらつきが肌に吸いついた。
嫌な感じなのに、同時に視線を離せなかった。
家に戻ってからも、その冷たさが指の中に残り続けた。
一週間、毎晩通った。
変化は八日目の朝だった。
目を覚まして手を見たら、粒がひとつ残らず、影すらなく消えていた。
頬にあった固まりも、撫でると平らになっていた。
鏡の奥に、久しぶりに知っている輪郭の自分が立っていた。
その日から、世界は風通しの良い場所に戻った。人と話すのに肩がこわばらなくなった。
社のことは、徐々に遠ざかった。
あの冷たい水の感触だけ、時折唐突に思い出すことがあったが、すぐ流れた。
高校に入って間もない頃だった。
春の光がまだ薄くて、校舎の影が長く伸びていた時期。
ふとした拍子に、机の角で指を打った。あの頃のように、無感覚な跳ね返りが来るかと身構えたが、ただ普通の痛みだけが走った。
その瞬間、あの小さな社のことが、急に胸の底で膨らんだ。
忘れていたわけじゃない。ただ、見ないふりをしていた。
自分が“元の顔”でいられるのは、確かにあの場所のおかげだ。
礼を言いに行かなければ、と唐突に思った。
放課後、家に戻る前に、母へ場所を確認しようとした。
「ねぇ、前にさ、いぼの……ほら、水を塗りに行った社。あれって家の裏の坂を降りて……」
母は、湯気の立つ鍋をかき混ぜながら、曖昧に顔を上げた。
「何の話? そんなのあった?」
首をひねり、笑ってさえいた。
冗談を言っているようには見えない。
あの頃、母は自分以上に不安定だったはずで、そんな記憶を忘れるとは思えなかった。
胸がざわついた。
気味悪さというより、体の奥で何かが微かにずれたような感覚だった。
その夜、地図を手に近所を歩いた。
あの鳥居は、確かに家の裏の細い道の突き当たりにあった。
道は覚えている。竹垣の影が長く伸びて、電柱の明かりが一つだけある、行き止まりの路地。
だが、いくら歩いても、鳥居はなかった。
細道の先には普通の民家があり、庭に灯っている橙色の照明が、かつてそこに別のものが立っていたことを否定していた。
翌日、さらに範囲を広げた。
犬の散歩をしている老人に尋ねると、首を横に振り、そんな社は聞いたこともないと言った。
別の家の主婦も同じ返答だった。
「昔からこの辺りは変わってないわよ。神社なんてないはず」
歩きながら、額に薄い汗が滲んだ。
春なのに、汗の温度だけがおかしかった。
手の平を確認する癖が再び出た。皮膚は滑らかだ。
けれど、滑らかであるほど、何かを“置いてきた感覚”が濃くなっていく。
夜、風呂に入りながらもう一度手を見る。
水の中で指が揺れるたび、かつてイボを触ったときの微細なざらつきの記憶が、なぜか蘇る。
無意識に中指の付け根を撫でると、痕跡はないのに、指先がほんの一瞬、ひやりとした。
あの石鉢の水の冷たさと同じ。
翌週、意地になって周辺の歴史資料を調べた。
地区センターの古い地図には、小祠を示す印が確かに存在した。
だが、印の横には「明治十年代に廃祀」と書かれていた。
自分が通ったのは、ほんの五年前だ。
地図を見つめるうち、思い出が静かに反転し始めた。
あの日、鳥居をくぐった時の“急に音が消えた感覚”。
社の周囲だけ湿気が濃かったこと。
水面に映った自分の顔が、わずかに歪んで見えたこと。
子どもの頃の記憶は曖昧だから、という言い訳が通じないほど、細部は鮮明だ。
鳥居の黒ずみは、手で触れると粉が落ちた。
石鉢には藻がうっすら浮き、底に沈む葉が揺れていた。
その視覚も触覚も、夢にしては生々しすぎる。
ただ、ここまで探しても、どこにも存在しない。
その晩、布団の中で耳を澄ますと、手の甲の内側で、何かがそっと動いた気がした。
筋肉の痙攣ではない。もっと、皮膚のすぐ下で、別の温度が揺れるようなゆっくりした動き。
思わず布団から手を出して、暗がりの中で見つめた。
表面は静かで、平坦だった。
だが、眠りに落ちる直前、ふっと、小さな音を聞いた気がした。
水滴が石に落ちるような、ごく微かな音。
耳の奥に、あの社の湿った空気が蘇る。
眠りの境目で聞いた水音は、翌朝になると曖昧になっていた。
だが、指先の皮膚の下に残った冷気だけは、朝の光でも消えなかった。
学校へ向かう支度をしながら、ふと鏡に映る自分と目が合う。
本来なら何でもないはずのその視線が、どこか“他人に覗き込まれたような”距離感を宿していた。
放課後、帰宅すると玄関に微かに湿った匂いがこもっていた。
雨は降っていない。靴底の跡も湿っていない。
それなのに、土と苔が混ざったような匂いが、家の中に薄く漂っている。
胸の奥で何かがざわついた。
その匂いは、あの石鉢に顔を近づけたときに感じた湿り気と同じだった。
夜、ふともらした独り言があった。
「……礼、言わなきゃな」
自分の声が耳に違和感を残した。
声帯ではなく、喉の内側の湿度が変わったような妙なざらつき。
不安というより、懐かしさに似た感覚が一瞬混じった。
そのまま布団に潜ると、まぶたの裏に鳥居が浮かんだ。
闇の中で、あの黒ずんだ木の表面がじわりと光を吸っている。
足元には小石が散らばり、踏むたびに乾いた音を立てる。
社の横の石鉢の水面が、こちらに向けて揺れもせず、ただ真横に広がっていた。
夢かと思ったが、匂いだけがやけに具体的だった。
湿った土、苔の緑、そして鉄のような冷たさ。
翌日。授業中、突然指先がぴり、と冷えた。
痛みではなく、あの日と同じ「吸われるような冷たさ」。
机の下でそっと中指の付け根に触れると、表面は平らなままだ。
だが、その一瞬、爪の際に“ひとつ影が乗った”ように見えた。
呼吸が浅くなった。
視界の隅が揺れ、黒板の字が遠ざかる気がする。
誰かが名前を呼ぶ声がしたが、言葉の角が丸くなって耳に入らなかった。
放課後の帰り道、家の裏の細道へ、気づけば足が向かっていた。
探しても見つからなかったあの道。
それなのに、その日は迷わずたどり着いていた。
薄暗い路地。
竹垣が影を落とし、風のないはずの夕方なのに葉が揺れている。
奥へ進むほど、空気が湿り、指先の皮膚が水気を吸って柔らかくなる。
突き当たり。
何もないはずの場所に――鳥居が立っていた。
前に見たときよりも黒く、表面が水を吸った木みたいに重い。
その向こうに、小さな社。
石鉢の水面だけが、周囲の薄闇を跳ね返すように明るい。
胸が痛むほど懐かしかった。
まるでここだけが自分の“帰る場所”で、他の生活が借り物だったかのように。
鳥居をくぐった瞬間、背後の空気が音を失った。
当時と同じ。
いや、あの日よりも輪郭がはっきりしている。
石鉢に近づき、覗き込む。
水面に映る顔は、自分だった。
けれど、何かが違う。
輪郭は同じなのに、皮膚の下で何かが静かに蠢き、
“形を貸しているだけ”のような妙な感覚があった。
その時、耳元で水音がした。
ぽちゃん、と。
石鉢からは何も落ちていない。
だが、胸のすぐ脇――肋骨の裏側で、水が跳ねるような感触が走った。
呼吸が止まり、指先が震えた。
その震えに合わせて、水面の自分の顔も揺れる。
だが、揺れたのは水面ではなく“顔の中身”だった。
ゆっくりと、皮膚の表面に粒の影が浮かび上がる。
イボの形。
かつて自分が持っていた形。
ひとつ、またひとつ。
だがそれは痛みではなかった。
むしろ、体が自分の“本来の姿に戻ろうとしている”ような自然さで広がっていく。
そのとき理解した。
――治ったのではなく、預けていただけなのだと。
石鉢の水が、ほんのわずかに揺れた。
その揺れが、まるで「返しに来たのだね」と言っているように見えた。
胸の奥でまた水音がした。
ぽちゃん。
体の内側に、粒が戻っていく感覚。
背を向けようとしたが、足は動かなかった。
影が足元に伸び、鳥居の向こうの世界からの光が徐々に薄くなる。
まるでそこが、もともと自分が出てきた場所だったかのように。
ふと、鳥居の向こうにかすかな気配を感じた。
背丈の低い子どもが、柱の陰からこちらをのぞき込んでいる。
顔は見えない。
だが、輪郭だけは確かに“今の自分”と同じだった。
指先が勝手に動いた。
中指の付け根に、乾きかけた小さな粒が触れた。
その感触は、懐かしいというより――
やっと戻るべき場所へ戻ってくる感触に近かった。
鳥居の影がじわりと重くなり、視界が水の中みたいにゆらめいた。
足元の土が湿り、皮膚がその湿度を吸い始める。
最後に見えたのは、石鉢の水面に映る“自分の顔”だった。
ただしそれは、鏡の中の自分ではない。
あの日、粒だらけだった頃のままの、
でもどこか嬉しそうに歪んだ顔だった。
水面がゆっくりと閉じていく。
まるで外側の世界を遮断するように。
次に目を開けたとき、鳥居も社も消えていた。
ただ指先だけが、ひやりと冷たかった。
そして……帰宅すると、母が玄関でこちらを振り返った。
驚いたように目を丸くしたあと、
「……どちら様?」
そう言った。
自分の名前を口にした。
しかし母の表情は変わらない。
その視線が自分の顔から手元へ落ちた瞬間――
母の眉がわずかに歪んだ。
指先に、乾いた粒がひとつだけ覗いていた。
その夜、夢の中で水音を聞いた。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
規則正しく、どこか温かい。
音の向こうから、あの石鉢がこちらをのぞいていた。
――あの日、治ったんじゃない。
――ただ、返されただけだ。
気づくと、胸の奥の湿度が心地よくなっていた。
[出典:374 :本当にあった怖い名無し:2009/11/25(水) 13:11:31 ID:GWx84wbL0]