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短編 工事現場の怖い話 n+2025 オリジナル作品

🚨光の角度 ncw+354-0121

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今でもあの夜の匂いを思い出すと、胸の奥がざわつく。

鉄と湿った土が混ざった匂い。油の膜が薄く浮いた水たまりは、欠けた月を映す皿みたいで、指先で触れると冷たさだけが残った。晩夏の夜気はぬるく、ブルーシートが風で擦れ、足場の金具がときどき乾いた音を鳴らす。作業用ライトは落としてある。頼りは懐中電灯一本だけで、丸い光輪がコンクリートの肌をなぞり、黒い影の輪郭を増やしていく。

夜の見回りはいつも同じ順路だった。仮囲い沿いに歩き、型枠置き場を回り、資材ヤードから飯場の外周へ。新米の現場監督だった俺は、気の弱い先輩の背中を追いながら、足場板のたわみを確かめる癖をつけていた。足首に汗がまとわりつき、作業靴の縁が擦れて妙にくすぐったい。

見回りを始めてから、鉄筋工たちは不思議におとなしくなった。飯場の灯は薄く、ラジオの電源は切られたまま。夜の現場は余計な声を吸い込み、呼吸だけを返してくる。その静けさが落ち着かなかった。懐中電灯の光は濡れた鉄筋に当たると白く跳ね返り、目の奥に残像を置いていく。

型枠の釘頭にはゴムキャップをはめさせ、鉄筋の先端にも赤いキャップを付けさせた。安全月間で、所長は「事故は数字で評価される」と繰り返していた。俺は数字を守る側にいるつもりだった。通路の角に出しっぱなしだったパイプを脇へ寄せ、結束線の輪を拾ってポケットに入れる。指に油のぬめりが残り、タオルで拭くと黒い筋がついた。

巡回の終盤、飯場の影の切れ目で、光の輪の縁がわずかに波打った。足が一本、通路に投げ出されている。白い靴だった。光を寄せると、そこに人が倒れていた。鉄筋工のひとりだ。腹のあたりに黒いものが集まり、タールみたいな匂いが鼻に重くつく。顔は汗と土で濡れ、目は俺の光から逃げるように細い。

先輩が短く息を吸って固まった。俺は膝をつき、タオルを外して腹部を押さえた。手に温度が移ってくる。脈打つたびにタオルが重くなる。何が刺さったのか、何が残っていたのか、頭の片隅で工程表をめくる自分がいた。ここに鋭利なものは無かったはずだ。そう思いながら、光をずらすと、足場の角に小さな黒い点の列が見えた。血の飛沫だった。

救急車が来るまでの時間は曖昧だった。白い手袋が血を吸って色を変え、俺のタオルは邪魔になった。サイレンの音に、飯場の影から誰かの顔が一瞬のぞき、すぐに引っ込んだ。病院に着くまでの揺れの間、俺は彼の呼吸の数を数えていた。

医師は短く首を傾け、目を伏せた。説明は静かで、数字が並んだ。人の血はそれほど多くない。失えば戻らない。俺は数字が嫌いじゃなかった。だがこの夜、その数字は喉に粘りついた。

翌朝、現場はいつもどおりだった。血の跡は水で薄められ、排水溝へ筋を引いている。足場の角に、赤いキャップがひとつ無いのに気づき、拾って差し込んだ。柔らかい樹脂の感触が爪に引っかかる。日中の騒音の中で、夜の記憶は遠のいた。

けれど夜になると、濡れた鉄の匂いが戻ってくる。先輩は「切り替えろ」と言ったが、その声は軽かった。飯場の網戸が風で揺れ、止まり、また揺れる。揺れを数え終わる前に、いびきのような音が聞こえた。眠っている音だと、その時は思った。

秋に入った午後、現場事務所の階段で声がかかった。造作大工が倒れたという。三階の踊り場。パイプ椅子に座ったまま、男は目を閉じ、肩が上下している。いびきにも似た音。俺は腕を取り、名前を呼びながら揺すった。身体は重く、汗が冷たい。

担架が来るまで、蛍光灯が微かに唸っていた。男の頭が椅子の背に二度ほど当たり、俺は反射的に手を添えた。その時、通路の天井に付いた黒いレンズが目に入った。防犯カメラの赤い点が、確かに点いていた。

病院で、医師は別の言葉を使った。脳の血の話。動かすことについて、曖昧な注意が添えられた。俺は喉の奥が焼けるのを感じた。

数日後、所長に呼ばれ、防犯カメラの映像を見た。画面の夜は青く、ノイズが雪のように降っている。飯場の前、俺の懐中電灯の光が地面を舐め、鉄筋の縁で跳ね返る。画面の端から男の影が現れ、光を避けるように足を運ぶ。白く飛んだ金具。次の瞬間、影が沈む。

三階の映像もあった。俺は男の肩を強く揺すっている。善意に満ちた動きだった。その善意が、画面の中で別の意味を帯び始める。俺は初めて見るはずの夜を、初めて見る自分を見ていた。

現場は進む。報告書は整い、数字は改善する。所長は投光器を増やし、影は短くなった。白く飛んだ床に、人は足を置きたがる。白は安全に見える。

夜の見回りで、俺は懐中電灯を少しだけ下に向ける癖がついた。遠くを照らさない。規定とは違うが、濃い影のほうが足元ははっきりする。あの二人は、夜ごと夢に出る。白い靴と、パイプ椅子。俺の手の中の光は消えない。

報告書の余白が白く眩しい。俺は懐中電灯の角度を、ひと目盛りだけ下げた。

(了)

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