高校三年の頃、古典を担当していた年配の教師がいた。
白髪をきれいに撫でつけ、動きは遅いのに、教室に入ってきただけで空気が変わる人だった。普段、授業などほとんど聞いていなかった俺が、その教師の声だけは自然と追ってしまう。内容ではない。意味でもない。ただ、聞いていないといけないという感覚だけがあった。理由は分からないし、考えたこともなかった。
ある日の授業中、その声が突然途切れた。教壇の上で、教師の身体がぐらりと傾き、机に伏せた。ざわめきが広がり、誰かが名前を呼び、誰かが保健室に行こうと立ち上がった。その瞬間、俺はもう席を離れていた。
意識した記憶はない。気づいた時には、教師を背負っていた。四階から一階までの階段を下りる間、腕も脚も勝手に動いていた。重いはずだった。実際、あとで考えれば、老人一人を背負って走れるような体格ではない。だが、その時に感じていたのは重量ではなかった。背中にのしかかる圧だけが、やけに明確だった。止まるという選択肢は、最初から存在していなかった。
保健室に着いた途端、教師は意識を失い、そのまま救急車で運ばれた。命に別状はなかったらしい。後日、周囲から礼を言われ、少し持ち上げられた。だが、俺の中には妙な違和感だけが残っていた。助けたという感覚が、どうしても湧かなかった。
数週間後、教師は復帰した。痩せてはいたが、表情は以前と変わらず穏やかだった。授業の終わり、教師は俺の方を見て、短く礼を言った。
「ありがとう。……君とは、初めて会った気がしない」
その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。こちらも同じ感覚を抱いていたからだ。懐かしい、という言葉が近いが、それでは足りない。もっと古く、もっと当然のものに触れた感じだった。
家に帰ってから、その出来事を両親に話した。母は少し黙り込み、父は何も言わなかった。ただ、二人とも、話を聞き終えたあとで目を逸らした。その反応が、かえって不安を煽った。結局、詳しい説明はなかった。
それ以降、教師の声を聞くと、授業中でも背中が重くなった。椅子に座っているはずなのに、立たされているような感覚が抜けない。教師は以前よりも俺を見ることが増えたが、視線が合うたび、胸の奥がざわついた。
卒業を待たず、教師は再び体調を崩し、ほどなく亡くなったと聞いた。葬儀には行かなかった。それでも、その夜、初めて夢を見た。
背中に誰かを乗せて、暗い廊下を歩いている夢だった。相手の顔は見えない。ただ、降ろしてはいけない、という感覚だけが、骨の奥にまで染み込んでいた。
目が覚めたあとも、圧は消えなかった。今も、ときどき同じ重みを感じる。誰もいないはずの背中に、立ち続けることを命じるような圧がかかる。
あの日、俺が背負ったのは、本当にあの教師だったのか。
助けたのか、呼ばれたのか。
役目が終わったのか、それとも、まだ続いているのか。
答えは出ていない。ただ一つ分かっているのは、次に同じ重みが来た時、俺はまた立ち上がってしまうだろうということだ。理由を考える前に。
[出典:358 :本当にあった怖い名無し:2008/03/06(木) 15:07:55 ID:9pQitVO50]