三年前の夏だったと思う。腕が日に焼けてヒリついていた記憶がある。
あの頃、就職したばかりの俺は、ただ生きてるだけで手一杯だった。なにかを考える余裕もなく、朝起きて、電車に揺られて、ただ席に座ってるだけで泣きそうになってた。
そんなある日、携帯が鳴った。高校の同級生、Aからだった。
「元気してる?」
懐かしい声だった。ほっとした。
「最近ちょっとしんどくてさ、でも、あるセミナーに行ったら、すごい気が楽になったんだ。自己啓発っぽいやつだけど、全然怪しくないよ」
そう言ってAが勧めてきたセミナーは、聞くだけならまあ悪くなさそうだった。胡散臭いなとは思ったけど、Aは昔から宗教とかオカルトとは無縁のタイプだったし、最悪、社会勉強にはなるかと軽い気持ちで参加することにした。
当日、駅前で待ち合わせてAの車に乗り、一時間ほど走った。山道をぐんぐん登って、舗装もされていない獣道のような細道に入り、やがて車は止まった。そこにあったのはプレハブ小屋。鉄板むき出しで、工事現場みたいな見た目。周囲には何もない。携帯の電波も届かない。
車を降りると、黒いスーツを着た男女が数人、笑顔で迎えてきた。みんな受講者らしく、今日はボランティアで手伝っているらしい。みんな異様に歯が白くて、目だけが笑っていなかった。虫の羽音のような沈黙が支配していた。
逃げ出したかった。だけどAの車でここまで来た以上、徒歩で帰れる場所でもない。
受付の机の前に立たされ、俺の分の参加費をAが支払う。無言のまま眺めていると、ひとりのスーツの男が「新規の方はこちらです」と言って俺をパーテーションの奥に案内した。
そこには、リクライニング式の大きな椅子があった。マッサージチェアをもっと武骨にしたような形状で、横にスピーカーと、家庭用の加湿器が設置されていた。
「脳を活性化する音が流れます。リラックスしてください」
男はそう言い残して、俺をひとりにした。
座るしかなかった。座面は硬くて冷たい。背中にうまく収まらない。さっきからずっと頭の奥がきしんでいた。
数分後、異変が始まった。鼻がむずむずし、唐突にあくびが止まらなくなった。眠いわけでもない。ただただ、延々と口が開いてしまう。あごがガクガク鳴る。目が乾く。唇の端が裂けて、血が滲んだ。
「あの、ちょっと……」
声を上げようとした瞬間、スーツの男たちがパーティションの外から走ってきて、俺の身体を押さえつけた。
「落ち着いてください。まだ終わっていません」
スピーカーから流れていた音が、プツプツ……プツプツ……と途切れた連続音になっていた。頭の芯がねじれるように痛む。何かが脳に直接触れているような、そんな感覚。
逃げようとしても、もう身体が動かなかった。
目の端が痙攣する。胸がうまく上下しない。息が浅い。いや、これは呼吸じゃない。ただ口が開いてるだけだ。喉がひゅうひゅう音を立てる。
……そこで、記憶が途切れた。
次に目が覚めた時、プレハブ小屋の中にいた。だがそこには誰もいなかった。加湿器もパーテーションも受付も、跡形もなく消えていた。室内には、さっきまで座っていたゴツい椅子だけが残っていた。
外を見ると、空が赤かった。朝焼けか夕焼けか分からない。時間の感覚がなくなっていた。
ひどく虚しかった。胸の奥が空洞みたいで、風が通るようだった。怒りよりも悲しさのほうが先にきて、涙が出そうになった。
「……訴えてやる」
気づけばそう呟いていた。証拠を探さなきゃと、辺りを見回した。椅子の足元に、小さなCDケースが落ちていた。真っ白なレーベルに、油性ペンでただ「ツ」とだけ書いてあった。
それを握って、小屋を出た。どうやって山を下り、帰ったのかは覚えていない。ただ、帰宅したときには、手の中にそのCDが残っていた。
その後、数日は何事もなく過ごした。けれどある日、自分の名前のカタカナ表記に違和感を覚えた。名刺を見た。SNSも見た。履歴書も。どれも同じだ。
カタカナの『ツ』の点が、二つしかない。
……あれ?
昔は三つだった。絶対に。俺の名前は三つの点の『ツ』じゃないとおかしい。書き方だって、ずっとそうだった。なのに、今どこを探しても、点は二つしかない。
あの椅子に座ってからだ。たぶん、あの瞬間から、何かがずれている。
Aに電話してみた。だけど繋がったのは、まったく知らないケーキ屋だった。番号は間違っていなかったはずだ。確かにAの名前で登録してあったし、通話履歴にも残っている。
嫌な予感がして、卒業アルバムを引っ張り出した。
Aの顔は、そこにあった。だけど、あのセミナーで会ったAじゃなかった。似ているようで、どこか違う。表情が固い。名前の漢字も、記憶していたものとは微妙に異なっていた。
ぞわっとした。まるで自分だけが、大掛かりなドッキリに巻き込まれているような気分だった。
それからはもう、何を見ても信じられなくなった。会社のロゴが変わっていたり、道順を忘れたり、子供の頃の記憶にあった店が存在していなかったり。
俺だけが、違う世界に来てしまったような……そんな感覚。
誰に言っても、病気扱いされる。でも、違うんだ。俺は知ってる。点が三つの『ツ』は、確かに存在していたんだ。俺の名前の中に、三つの点が確かにあったんだ。
もしもいつか、あの世界に突然戻されたら……その時、俺はどうなるんだろう。
きっと、誰のことも信じられなくなる。
だって俺にとって、ここは仮の世界なんだから。
[出典:59 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/02/25(金) 19:20:16.02 ID:uRfV8Ob00]