大阪の祖父が死んだのは、私が小学五年のときだった。
病名は膵臓癌だったと聞かされた。肺でも心臓でもなく、内側から静かに腐っていく臓器らしい。苦しんだと母は言ったが、最後に会った祖父はまだ肉付きがよく、目だけが妙に澄んでいた。
あれは夏のはじまりだった。父の転勤で私たちは北海道に住んでいて、祖父とは何年も会っていなかった。ある日突然、祖父が電話口で「絶対に遊びに来い」と言い出した。理由は言わない。ただ、どうしても、今すぐだと繰り返すので、私と母だけで大阪へ向かった。
祖父は、誰が見ても元気な老人だった。甚平はきちんと畳まれ、新聞は折り目正しく積まれ、食卓には粉ひとつ落ちていなかった。生活の隅々まで、過剰なほど整っていた。
おかしかったのは、それだけだった。
祖父の部屋で二人きりになったとき、空気の温度が変わった。夏のはずなのに、ひやりとした感じがした。
「おまえには言うとく」
祖父は、まるで昔話でも始めるような声で言った。
「爺ちゃんはな、来年死ぬんや」
私は何も言えなかった。
「今はピンピンしとるから、信じられへんやろ。でももう中で広がっとる。間に合わんのや」
祖父はこめかみに指を当てた。
「子どもの頃な、未来が見えた。これは嘘やない。起きることが、もう終わったことみたいに見えた」
私は、ただ聞いていた。祖父の声は落ち着きすぎていて、冗談にも狂気にも聞こえなかった。
「最初は助けとった。家族とか、近所の人とか。でもな……だんだん見えんようになってきてな」
祖父の目は、私を見ていなかった。
「ある日、母ちゃんが夢に出てきてな。ごめんな、って言うた。それから、ぱたっと見えんようになった」
祖父は引き出しから黄ばんだ封筒を出した。中には、日付と時間だけが鉛筆で書かれた紙が一枚。
「これは、おまえの死ぬ日や」
私は息を呑んだ。
「海外に行ったら巻き込まれる。なんとしても行ったらあかん。……これが、ワシが見た最後や」
祖父の声は、少しだけ震えていた。私は頷くことしかできなかった。怖かったが、それ以上に、祖父が何かを渡し終えたような顔をしていたのが忘れられない。
それ以外の祖父は、いつも通りだった。料理を作り、夜には星を見せ、昔話をして笑った。
翌年の春、祖父は死んだ。

癌は全身に回っていた。病室で会うたび、祖父は私を見ると、にやりと笑った。あの話は、二度と口にしなかった。
それから年月が過ぎた。高校を卒業し、フリーターとして働いていた頃、友人たちと海外旅行の話が出た。日程を見た瞬間、胸の奥がざらついた。
その日付と時間に、覚えがあった。
紙は引越しのどさくさで失くしていたが、数字の並びだけは頭に焼き付いていた。私は理由を言わず、必死に別の日を提案した。渋る友人たちを、半ば強引に説得した。
出発予定だった日、ニュースが流れた。行き先だった地域で爆破事件。死傷者多数。外国人観光客も含まれていた。
私は生きていた。だが、助かったという感覚はなかった。
後日、友人のひとりが震えた声で言った。
「おまえ、なんで分かったん?」
私は答えられなかった。
数年後、結婚し、子どもが生まれた。
実家に帰省したある日、テレビで災害のニュースを見ながら、何気なく言った。
「未来が分かれば、防げるのにな」
隣にいた弟が、ぽつりと呟いた。
「……小さい頃、見えてたことある」
弟は言った。誰が転ぶか、どこで事故が起きるか、断片的に分かることがあったと。けれど、祖父が死んだあと、夢に出てきて「ごめんな」と言われてから、何も見えなくなった。
私は、祖父の話をした。弟はしばらく黙り込み、やがて低い声で言った。
「じゃあ……俺も、もらってたんだ」
弟は、それが当たるたびに、誰にも言えなくなっていったと言った。言わなければ事故が起き、言えば嫌われる。その繰り返しだった。
「見えなくなって、正直ほっとした」
その言葉が、なぜか引っかかった。
帰り道、幼い頃の記憶が蘇った。三歳だった弟が、一人で家を抜け出し、幼稚園まで来たことがあった。理由を聞くと「お姉ちゃんが危なかったから」と言ったと母は笑っていた。
私は、今、三歳の娘と暮らしている。
最近、娘は時々、意味の分からないことを言う。
「ママ、あそこで車がころんでる」
「いない人が、こっち見てる」
私は笑って流す。そうするしかない。だが、娘の目を見ると、祖父と同じ、決めつけるような確信が宿っている気がする。
あの封筒は、助けだったのか。
それとも、渡された時点で、もう終わっていたのか。
来月、私は娘を連れて、祖父の墓へ行く。
感謝を言うべきなのか、返すべきなのか、まだ決められない。
ただ、次に何が渡されるのかを考えると、胸の奥が冷えていく。
(了)
[出典:539 :本当にあった怖い名無し:2018/07/13(金) 20:17:09.90 ID:+ZaTSK2U0.net]