近所の古道具屋の奥さんから聞いた話だ。
店に顔を出すたび、ある娘さんが決まって母親のことを話していく。九十をとうに越えた一人暮らしの老人。骨ばった身体で、皮膚は薄く、影に溶けそうなくらい小さい。それでも背筋はしゃんと伸び、耳も目も達者で、新聞を裸眼で読むという。
戦争も飢えも越えてきた世代の芯の強さだろう、と皆が言った。ひとり暮らしでも心配はいらないと。
子どもは三人。交代で様子を見に行っていたが、ある月だけ、どうしても予定が合わず、一週間ほど誰も顔を出せなかった。
ようやく長女が訪ねたときのことだ。
家は静まり返り、こたつだけがぽつんと置かれていた。中を覗くと、老人はうつむいたまま、誰かに向かってやわらかく話しかけていたという。
「そうかい、今日も来てくれたのかい。寒くないかい。ほら、ここにおいで」
声は赤子をあやすように甘く、途切れ途切れに続いていた。長女は一瞬、認知症が進んだのかと身構えた。
だが老人はぴたりと口を閉じ、顔を上げると、いつもの調子で立ち上がり、湯のみを二つ並べて茶を注いだ。
「あんた、あたしがボケたと思ったろう。でも違うよ。友達ができたんだ」
友達。
台所のシンクで滑り、出られなくなっていた小さな蜘蛛だという。ハエトリグモ。指先ほどの黒い影を、紙に乗せて逃がしてやった。それだけのこと。
ところが翌日から、蜘蛛は決まった時間に現れた。こたつの縁、畳の目、湯のみの底。老人が声をかけると、動きを止めてじっと見上げる。逃げない。跳ねない。

「聞いてるんだよ。あの子はね」
長女は笑えなかった。蜘蛛は虫だ。懐くものではない。
数日後、強引な訪問販売の男が来た。断りきれずに玄関先で立ち往生していると、いつの間にか小さな黒い影が契約書の上に現れたという。男は悲鳴を上げ、書類を放り出して帰った。
「蜘蛛の恩返しだねぇ」
老人は本気でそう言った。
その頃から、食事の様子が変わった。食べ残すのではない。箸で細かくちぎり、皿の端に寄せる。誰かの分を取り分けるように。
冷蔵庫の中身も減り方が妙だった。肉や魚よりも、柔らかいもの、匂いの強いものが先になくなる。
「おなかいっぱいなんだよ」
そう笑いながら、老人は台所の隅に目を向ける。
さらに数日後、長女が再び訪ねると、老人は嬉しそうに言った。
「もう一人、連れてきたよ。今度は大きい」
どれくらい、と問うと、両腕をいっぱいに広げた。
天井に届くほど。
もちろんそんな蜘蛛はいない。長女は血の気を失い、家じゅうを見回した。だが畳の上にも、天井にも、それらしいものはない。
ただ、天井の隅に、煤のような黒ずみが広がっていた。いつからあったのか思い出せない、じっとりとした染み。
「もうすぐ迎えが来るよ」
老人はそう言ったという。
その晩、こたつに入ったまま、静かに息を引き取った。苦悶もなく、眠るように。
死因は老衰。
だが長女が見た光景は、それで片づけられなかった。
こたつの周囲に、小さな蜘蛛の死骸がいくつも落ちていた。数えきれないほどではないが、明らかに一匹や二匹ではない。円を描くように、老人を囲んで。
そして喉元に、黒い点があった。針で刺したような、いや、もっと細かい。無数の点が集まったような痕。
医者は何も言わなかった。
家を引き払う準備の間、長女は台所の天井を見上げられなかったという。視線を感じる。何かが静かに動いている気配がある。
ある日、脚立に上って照明を外したとき、埃と一緒に乾いた殻のようなものが落ちた。蜘蛛の脱皮殻に似ていたが、指先でつまむと、薄い紙のように軽かった。
人の皮膚のかけらにも、見えた。
今もあの家は空き家のままだ。窓の内側、カーテンの隙間に黒い影が揺れることがあると、近所では言う。
老人は本当に一人だったのか。
それとも、助けたつもりで、何かを家の中へ招き入れたのか。
蜘蛛と、おばあさんの話だ。
[出典:310 :3-1@\(^o^)/:2016/05/10(火) 11:27:40.92 ID:my1MCSdO0.net]