ネットで有名な怖い話・都市伝説・不思議な話 ランキング

怖いお話.net【厳選まとめ】

短編 r+ 奇妙な話・不思議な話・怪異譚

監視の目 r+2,667

更新日:

Sponsord Link

地方新聞の支局で記者をしていた頃のことだ。

あの事務所は、平日の昼でも妙に湿った匂いがした。紙とインクと、古びた木の机が吸い込んできた幾年分の埃の匂いが混じり、いつまでも鼻の奥に残る。静かな日は、時計の秒針すら響くほどで、外からは時折、郵便屋のバイクの音や、向かいの商店で豆を挽くガリガリという音が流れ込んできた。

そんな事務所にも、時々おかしな来訪者が現れた。おかしいといっても、服装や態度の奇抜さではない。もっと根の深い、精神の奥で何かが剥がれ落ちたような種類の人間だ。
妙に多いのが、自分こそがある事件の犯人だと名乗る者だった。中には、何十年も前の三億円事件の犯人を自称する老人や、すでに犯人が逮捕されている事件で「逮捕された奴は冤罪、自分こそ真犯人だ」と言い張る中年までいた。そういう連中は、大抵どこか演技じみていて、こちらが適当に相槌を打てば満足して帰っていった。

あの日も、最初はその類だろうと決めつけていた。
昼下がり、引き戸が重たく開き、男が一人入ってきた。年の頃は四十代半ば。痩せすぎた体、長い指、そして顔に貼りついた乾いた皮膚。焦点の定まらない目が、事務所の隅々をゆっくりと舐めるように動き、やがて私の席に止まった。
「……人を殺した」
第一声がそれだった。低く、湿った声。
無意識にメモ帳を手に取っていた。記者の習性だ。問い返す前に、男は淡々と語り出した。バラバラにしたこと、風呂場で切断したこと、公園のゴミ箱に分けて捨てたこと……その語り口には感情の起伏がなく、まるで昨日の天気でも話しているようだった。

だが、その時代、その土地でそんな事件は起きていない。過去十年以上をさかのぼっても、類似の事件はないはずだった。
「この県じゃない。東京での話だ」
そう言われた瞬間、体の奥で何かが引っかかった。なぜわざわざ、こんな田舎まで来て告白する? 問い詰めると、男は短く答えた。
「都会じゃ監視の目がある。ダメなんだ」
監視の目。その言葉を、私はただの妄想だと片付けようとした。心の中で「来たな、やっぱりおかしいやつだ」と呟き、早く話を終わらせようと質問を畳みかけた。

「なぜ殺した」
「死んでしかるべき人間だった」
「どういう意味だ」
「それは言えない」
「なぜバラバラに」
「わかる人にはわかる見せしめだ」
「わかる人って誰だ」
「それは言えない」

同じやり取りが続く。やがて「なぜ自首しない」と問うと、男は口元を歪め、鼻で笑った。
「警察なんか意味がない」
その声音は、まるで世のあらゆる秩序を内側から見下ろしているようだった。
「じゃあなぜ、ここに来た」
少し沈黙した後、男はふっと目を伏せた。
「……せめて誰かに聞いてほしかった」

その時にはもう、私の中の興味は完全に冷えていた。男の言葉は断片的で、繋がりがなく、核心を避け続ける。会話を続けても何も得られないと悟り、私は無言で時計を見た。
それを察したのか、男は席を立ち、「忙しいのに悪かったね」と呟いて、背を向けた。その姿がドアの外に消えた瞬間、空気がふっと軽くなった。

数日間、その奇妙な訪問は私の中でほとんど風化しかけていた。
だが、一週間後、取材の電話が鳴った。川で溺死体が見つかったという。現場に向かうと、夏の湿気が重くたれ込め、川面は鈍く光っていた。ロープで囲まれた中に、人の形をした黒い塊が横たわっていた。
その服装を見た瞬間、背筋を冷たいものが走った。あの男と同じ格好。色褪せたジャンパー、土埃をかぶったスニーカー。顔は水に浸され、皮膚は膨らみ、原形を留めていなかったが、体格も、肩の落ち方も、あの日の姿そのままだった。

身元を示すものは何一つなく、所持品も空っぽ。後日、行方不明者の届けと照合しても該当者はおらず、「誤って川に転落した事故死」として処理された。
私は何も言わなかった。
警察に「一週間前に会っていた」とは告げなかった。言えばきっと、余計な詮索を呼ぶ。あの「監視の目」という言葉が、耳の奥で何度も反響した。もしもあれがただの狂言でなく、何かの暗い連鎖の一端だったら――そう考えた瞬間、背中の皮膚がじわりと汗ばみ、口がきゅっと固まった。

今でも、あの溺死は偶然だったと思いたい。九割九分はそう信じている。
だが、残りのわずかな隙間に、何かが潜んでいる気配がある。目には見えないが、確かに存在する「監視の目」。そして、口にすれば何かがこちらを振り向くような気がして、私はこの話を誰にも語らなかった。
……少なくとも、今までは。

[出典:134 :1/3:2009/08/04(火) 23:35:16 ID:X1AJxGlo0]

Sponsored Link

Sponsored Link

-短編, r+, 奇妙な話・不思議な話・怪異譚

Copyright© 怖いお話.net【厳選まとめ】 , 2025 All Rights Reserved.