金曜の夕方、打ち合わせ中に親父の名前が画面に出た。
あの人から仕事中に電話が来ることは滅多にない。嫌な予感がしたが、その場では切った。終わってから折り返すと、呼び出し音だけが虚しく鳴り続けた。
夜九時を過ぎ、コンビニで冷凍食品を選んでいると、また着信が入った。
「おう、俺だけど」
出た瞬間、聞き慣れた声。だが妙に籠もっている。喉の奥に水を溜めたような、湿った響きだった。
「どうしたの」
「検査で病院来たらな、そのまま入院だとよ。家族に来てもらえって言われてな。すまんが、来れるか」
地元の市民病院。大池のそばの、あの古い建物だという。
母が死んでから、親父は一人で俺を育てた。恩を返せた覚えはない。迷いはなかった。「今から行く」とだけ告げ、レンタカーを手配した。
二時間の道のりは妙に短く感じた。高速は空き、アクセルを踏み込みすぎている自覚もあった。ただ途中から、胸の奥が締め付けられるように痛み出した。吐き気がこみ上げ、視界の端が揺れる。焦りとは違う。何かが内側から削れていくような、不快な感覚だった。
町に入ったのは十一時半過ぎ。人の気配が消えたような静けさだった。
喉が渇き、病院へ向かう前に見覚えのあるコンビニに入った。昔、同級生の川田の家がやっていた店だ。
レジに立った男が、俺の顔を見て目を細めた。
「……山田か」
川田だった。五年ぶりだ。
事情を話すと、彼は眉を寄せた。
「市民病院? 大池のそばの?」
「ああ」
「……あそこ、もう無いぞ」
合併で閉鎖され、統合されたという。跡地はそのまま放置されていると。
理解が追いつかないまま、彼は俺のスマホを取り、親父の番号にかけた。
「こんばんは、山田の同級生の川田です。今、本人いるんで代わりますね」
受話器を押しつけられる。
「もしもし」
「ああ、どうした」
背後でカラオケの音が鳴っている。親父の声はいつも通りだった。
「体は大丈夫か」
「懐は寒いがな。何だ急に」
冗談を言う余裕すらある。
通話を切ると、川田は淡々と言った。
「用事ないなら帰れ。あそこ、夜に行くとろくなことがない」
冗談めかして笑ったが、目は笑っていなかった。
結局、病院跡地には向かわず、夜道を引き返した。部屋に戻ったのは午前三時近く。倒れ込むように眠った。
昼前、親父から電話が来た。
「昨日は悪いな。何かあったのか」
昨夜のことを話すと、沈黙が落ちた。
「俺はお前に電話してない」
さらに低い声で続けた。
「発信履歴にも残ってない」
言葉が出なかった。
「……それとな、川田んとこの店、半年も前に潰れてる。家族も町を出た。今は空き店舗だ」
背筋が冷えた。
「あの番号、全部ゼロだった」
俺がそう言うと、親父は小さく息を吸った。
「昨日な、俺にもかかってきた。同じ番号から。若い男の声で、すぐお前に代わった」
通話はそこで途切れた。
あの夜、俺は誰と話していたのか。あの店で会ったのは誰だったのか。
市民病院の跡地には、今も花が置かれているらしい。誰が置いているのかは分からない。夜になると、大池のほとりに人影が立つという噂もある。
親父は町を出た。川田一家も戻っていない。
それでも深夜、スマホが震えることがある。
画面には、000-0000-0000。
出なくても、着信は残る。
そして翌朝、履歴は消えている。
「おう、俺だけど」
あの湿った声は、まだどこかで続いている。
俺が出るのを、待っている。
[出典:436:本当にあった怖い名無し 投稿日:2019/06/23(日)03:16:42.59ID:j0Xhry3G0]