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中編 山にまつわる怖い話 n+2026

峠の記録データ nc+

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冬の入り口に差し掛かった、十一月の半ばだった。

暖冬の予報通り、その夜は季節外れの生温い風が吹いていた。アスファルトに染み付いた油と、枯れ葉の腐臭が混じり合った独特の匂いが、鼻腔の奥にへばりつく。
私は大学生活の鬱屈を排気ガスと共に吐き出すため、いつもの峠へと車を走らせていた。

深夜二時。
街の灯りは遠く、山の稜線が黒いインクを流したように夜空を切り取っている。
この峠は、週末ともなれば走り屋たちのタイヤのスキール音で喧しいが、平日の、しかもこの中途半端な時期には、墓場のような静寂が支配していた。
ガードレールに反射するヘッドライトの光だけが、この世界で唯一動いているもののように思えた。

私の愛車は、古い年式だが中身は別物だ。給排気系から足回り、ボディ補強に至るまで、アルバイト代の全てを注ぎ込んで仕上げてある。
最新の電子制御で武装した四輪駆動車をも、下りのテクニカルな区間ならば追い回せる。その自負だけが、私のちっぽけな自尊心を支えていた。

一本目。
タイヤの温まり具合を掌で感じるように、慎重にステアリングを切る。
路面温度は悪くない。凍結の恐れもない。
湿度を含んだ空気はエンジンの吸気効率を若干落とすが、ターボチャージャーが過給する金属的な高周波音が、私の脳髄を心地よく痺れさせる。
アドレナリンが、日常の些末な不安――就職活動の停滞や、希薄な人間関係――を塗り潰していく。

三本走ったところで、路肩の待避所に車を停めた。
シガーライターを押し込み、窓を少し開ける。
静かだ。
あまりにも静かすぎる。
エンジンの冷却ファンが回るブーンという低い唸りと、熱せられたマフラーがチン、チン、と冷えていく金属音だけが響く。
虫の声もしない。風が木々を揺らす音すら、真空パックされたように遮断されている。
闇の密度が、普段よりも濃い気がした。
ふと、背筋の産毛が逆立つような感覚を覚えた。誰かに見られているような、粘着質な視線。
ルームミラーを見る。
赤く光るデジタル時計の表示と、リアウインドウ越しの漆黒の闇だけ。
気のせいだ。
そう自分に言い聞かせ、私は吸いかけの煙草を携帯灰皿に押し込んだ。

「ラスト一本」
誰に聞かせるわけでもなく呟き、キーを捻る。
セルモーターの鋭い音が静寂を引き裂き、エンジンが咆哮を上げる。
この車には、後付けのマルチメーターを取り付けてあった。水温、油温、油圧。それらの数値をリアルタイムで監視するだけでなく、走行データを最大三分間記録し、後で再生できるロギング機能がついている。
自分の走りを客観的に分析するための、高価な玩具だ。
私は記録ボタンを押し、アクセルペダルを床まで踏み込んだ。

クラッチを繋ぐと同時に、強烈なGが背中をシートに押し付ける。
タコメーターの針が跳ね上がり、シフトアップのたびに車体が震える。
往路のヒルクライムを駆け上がり、頂上の折り返し地点でサイドターンを決める。
タイヤが悲鳴を上げ、白煙が視界を遮る。
完璧な立ち上がり。
今日は乗っている。車と神経が直結したような、万能感にも似た昂揚。

復路、ダウンヒル。
重力が加速の味方をするこの区間こそ、私の真骨頂だ。
最初のヘアピンカーブへ向けて、フルブレーキングを開始する。
ヒール・アンド・トゥで回転数を合わせ、三速から二速へ。
その時だった。

視界の隅、ルームミラーの中に、異物が混入した。
光だ。
二つの丸いヘッドライトが、私の車の直後を照らしていた。

(……いつの間に?)
背中を冷たい汗が伝う。
折り返し地点には、確かに誰もいなかった。すれ違う車もなかった。
エンジン音すら聞こえなかったはずだ。
それなのに、その車は私のリアバンパーに触れんばかりの至近距離に、唐突に現れた。
車種は分からない。
ただ、そのライトの色温度だけが妙に印象に残った。
ハロゲンの暖色でも、HIDの青白さでもない。
古びた病院の廊下を照らす蛍光灯のような、生気のない白濁した光。

「ついて来れるなら、来てみろ」
恐怖を怒りで塗り潰し、私はさらにアクセルを踏み込んだ。
相手が誰であろうと、この峠で負けるわけにはいかない。
タイヤのグリップ限界を探りながら、コーナーをクリアしていく。
ランエボだろうがインプレッサだろうが、この区間なら引き離せる自信があった。

しかし、光は離れない。
焦りが指先を硬直させる。
ストレートで引き離しても、ブレーキングで詰められるなら分かる。
だが、後ろの車は違う。
まるで私の車と剛体で連結されているかのように、加速も、減速も、旋回も、寸分違わず同調しているのだ。
車間距離が、ミリ単位で固定されているような錯覚。

(異常だ)
理性が警鐘を鳴らし始めたのは、その直後だった。
この先には、舗装が波打っているバンピーな区間がある。
速度を乗せたまま突っ込めば、サスペンションが激しく伸縮し、車体は上下に揺さぶられる。
私は身構え、ステアリングを強く握りしめてその区間に突入した。
ガツン、ガツンと突き上げが襲い、ヘッドライトの光軸が激しく乱高下する。
私は反射的にルームミラーを確認した。

息が止まった。
私の車がこれほど激しく跳ねているのに。
ミラーの中の光は、微動だにしていなかった。
上下の揺れも、左右のブレもない。
まるで、鏡の表面に発光するシールを貼り付けたかのように。
背景の闇だけが激しく流れているのに、その二つの光だけが、静止画のようにそこに在る。

「……うわ、あああッ!」
絶叫が喉から漏れた。
あれは車じゃない。
物理法則に従って動く、鉄の塊ではない。
見てはいけないものだ。
関わってはいけないものだ。

私は半狂乱でアクセルを蹴り飛ばした。
ライン取りも荷重移動も関係ない。
ただ、ここから逃げ出したい一心で、車を暴れさせた。
タイヤが路面を掻きむしり、アンダーステアが出ようがお構いなしにステアリングをこじ開ける。
後ろを見るな。見るな。見るな。
脳内で繰り返しながらも、視線はどうしてもミラーに吸い寄せられる。
光は、無表情に、ただそこにあった。
音もなく。
排気音も、タイヤの音も聞こえない。
私の車の爆音だけが、虚しく夜空に吸い込まれていく。

峠の出口が見えた瞬間、私はブレーキを残したまま公道へと飛び出した。
交差点を強引に曲がり、街灯の並ぶ国道へと入る。
そこでようやく、私は震える手でミラーを直視した。

何もいなかった。
暗いリアシートが映っているだけだった。
全身の力が抜け、激しい吐き気がこみ上げた。
私はコンビニの駐車場に車を滑り込ませると、ドアを開けてアスファルトに嘔吐した。
胃液の酸っぱい臭いと、焦げたゴムの臭いが混ざり合い、現実感を無理やり引き戻す。

車を降りて確認すると、タイヤはドロドロに溶け、フェンダーの内側には飛び散ったタイヤカスが黒い血糊のようにこびりついていた。
あれだけの走りをすれば当然だ。
夢ではなかった。
あの異常な逃走劇は、確かに現実だったのだ。

それから数ヶ月、私は峠には近づかなかった。
車に乗ることさえ億劫になり、アパートの駐車場に放置していた。
冬が本格化し、雪がちらつき始めた頃、私は久しぶりに車のエンジンをかけた。
春休みに実家へ帰省するため、長期間乗らなくなる車のバッテリーを外しておこうと思ったのだ。
ボンネットを開ける前に、ふと、あの夜のことを思い出した。
恐怖は薄れていたが、違和感だけが棘のように刺さっていた。

(あの時、記録スイッチを押したままだった)

私は運転席に座り、埃をかぶったマルチメーターを操作した。
あの不可解な夜の、客観的な記録。
それを見れば、何かが分かるかもしれない。あるいは、単なるパニックが見せた幻覚だったと笑い飛ばせるかもしれない。
緑色のバックライトが点灯し、データ再生モードが起動する。

「再生」ボタンを押した。

アナログ時計のようなタコメーターの針が、跳ね上がるはずだった。
速度計の数字が、目まぐるしく変わるはずだった。
私が記憶しているあの夜の走りは、限界を超えた極限のドライビングだったのだから。

しかし。
メーターの針は、ピクリとも動かなかった。

速度、0km/h。
回転数、800rpm。
アクセル開度、0%。

それは、アイドリング状態を示していた。
故障か?
いや、データのタイムスタンプは確かにあの日の、あの時刻だ。
私は画面を凝視したまま、早送りのボタンを押した。
記録時間は三分間。
その間、数値はずっと横ばいだった。
エンジンは掛かっている。だが、車は動いていない。
ただ停まっている。

「そんなはずはない……」
声が震えた。
私は確かに走った。
タイヤは溶けていた。ガソリンも減っていた。
全身でGを感じ、ステアリングのキックバックと格闘し、死に物狂いで逃げたのだ。
それなのに、機械は「車は停止していた」と断言している。

その時、データの終盤に差し掛かった画面で、ある一つの数値だけが異常な変化を示していることに気づいた。

その数値は、『横G(ラテラル・ジー)』だった。

車は停止している。速度計はゼロ。エンジンはアイドリング。
にもかかわらず、横方向にかかる重力加速度のグラフだけが、狂ったように振れていたのだ。
右に0.8G、左に0.9G。
それは私が記憶している、あの峠のコーナーの数と、その曲率に完全に一致していた。

しかし、波形がおかしい。
通常のコーナリングならば、Gは滑らかな曲線を描いて立ち上がり、頂点を迎え、収束する。
だが、モニターに映るその波形は、あまりにも唐突で、暴力的だった。
ガツン、と叩きつけられるような衝撃的な立ち上がり。
持続する、不自然なほど一定の圧力。
そして、フッと消滅する唐突な解放。

私は冷え切った車内で、ノートパソコンの画面を凝視したまま動けなくなっていた。
これは「走っている」時のデータではない。
まるで巨大な何かによって、車ごと「掴まれ」、強引に「振り回されている」時のデータだ。
子供がミニカーを握りしめ、空中で乱暴に動かしているような。

さらにデータをスクロールさせる。
あの、舗装が波打つバンプ区間に差し掛かったと思われる時間帯。
そこで記録されていたのは、異常な『垂直G(バーチカル・ジー)』のスパイクだった。
サスペンションが吸収する路面の凹凸ではない。
もっと巨大な、一メートル、いや二メートル近い高さから落下し、叩きつけられたような衝撃値。
あの夜、私が「バンプで跳ねた」と感じた衝撃は、路面の凹凸などではなかったのだ。
車体が物理的に持ち上げられ、落とされた衝撃だったのだ。

脂汗が滲む。
車内の空気が、急激に粘度を増したように感じる。
あの夜、私は走っていたのではなかった。
何者かに「捕獲」され、峠という名の箱庭の中で弄ばれていただけだったのだ。
私が必死にアクセルを踏み、ステアリングを切り、逃げようともがいていた間、タイヤは一度も地面を捉えていなかった。
ただ空中で虚しく空転し、摩擦熱で溶けていただけだったのだ。

だとすれば。
あの、ルームミラーに映り続けていた二つの光は何だったのか。
私の車がどれだけ激しく揺さぶられても、微動だにせず、一定の距離を保ち続けていたあの光。
あれは後続車のヘッドライトなどではない。
物理的に私の車の直後に固定されていなければ、あんな動きはあり得ない。

私は震える手で、データログの最後にある「音声メモ」のファイルを再生した。
私のマルチメーターには、簡易的なマイクが内蔵されている。
エンジン音と共に、何かが録音されているかもしれない。
スピーカーから、ノイズ混じりの音が流れ出す。

『ブーン……』
アイドリングの低い唸り。
『……ヴォン! ヴォォォォォン!』
私がアクセルを煽る音。空吹かしの虚しい咆哮。
ここまでは予想通りだ。
だが、その背後に、別の音が混じっていた。

『……ギシッ……ギシッ……』
軋む音だ。
古い巨木が風に揺れるような、あるいは、巨大な関節が擦れ合うような、湿った摩擦音。
それが、車の揺れに合わせて規則的に響いている。
そして、私が「逃げ切った」と思い込み、国道へ出た瞬間のことだった。

『……つまらない……』

スピーカーからではなく、鼓膜の裏側から直接響くような、低く、しゃがれた声。
男とも女ともつかない。老人でも子供でもない。
ただ、純粋な失望と、侮蔑を含んだ響き。
その直後、ドン、という衝撃音がして、録音は途切れていた。

心臓が早鐘を打つ。
「つまらない」?
私が必死で逃げ回る姿が、退屈だったというのか。
それとも、壊れずに走り続けたこの車が、玩具として期待外れだったというのか。

私はパソコンを閉じ、車から飛び出そうとドアノブに手を掛けた。
その時、ふと視線がルームミラーに吸い寄せられた。
夜の駐車場。
リアウインドウの向こうには、見慣れたアパートの壁があるはずだった。

しかし、そこには闇しかなかった。
街灯も、他の車の影も、月明かりすらない、完全な漆黒。
そして、その闇の中に、二つの光が浮かんでいた。
あの夜と同じ。
白濁した、生気のない二つの円。

違う。
あれは光じゃない。
近づいてくるにつれ、その正体がはっきりと見て取れた。
あれは、巨大な眼球だ。
車の幅ほどもある巨大な顔が、リアウインドウにへばりつき、ガラス越しに中を覗き込んでいるのだ。
白濁した角膜。
瞳孔のない、虚無の眼差し。
それが、ミラー越しに私と視線を合わせている。

「あ……」

声にならない悲鳴を上げた瞬間、理解してしまった。
私は、帰ってきてなどいなかったのだ。
あの夜、国道に出たと思ったのも、アパートに帰り着いたと思ったのも、その後の数ヶ月間の生活も。
すべては、この「箱」の中での出来事だった。
私はまだ、あの峠の闇の中にいる。
いや、あの日、捕まえられたその手の中に、まだ握りしめられたままなのだ。

ドン。

車体が大きく揺れた。
巨大な指が、ルーフを上から押さえつける音がする。
ミシミシと金属が悲鳴を上げ、天井が歪んで沈んでくる。
ガラスにへばりついた眼球が、三日月のように歪んで笑ったように見えた。

『次は、もっと面白い走りを見せてくれ』

天井が完全に圧壊する寸前、私は自分のタイヤが溶けていた本当の理由を悟った。
それは摩擦熱ではない。
消化液だ。
私たちはとっくに、飲み込まれていたのだ。

今、これを読んでいるあなたの背後でも、軋む音が聞こえませんか?
振り返ってはいけません。
あなたが今いるその部屋も、本当はもう、誰かの掌の上なのかもしれませんから。

(了)

[出典:360 :あなたのうしろに名無しさんが…:04/04/05 16:08]

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