高校二年の夏、俺と川村、大塚、笹原の四人は、思いつきだけでキャンプに出かけた。
笹原の親戚が教えてくれたという川辺を目指していたはずだったが、山道で道を一本間違えたらしく、辿り着いたのは地図にも載っていないような川原だった。幅の広い川がゆるやかに流れ、河原には拳大の石が無造作に転がっている。背の高い草は不思議と少なく、妙に開けていて、そこだけ切り取られたような空間だった。
居心地がいいな、と誰かが言った。全員が同意した。今思えば、その感覚が一番おかしかった。
夕方、薪を集めるついでに川村と笹原が上流の方を覗きに行き、しばらくして戻ってきた。二人とも少し浮かない顔をしていた。
「向こう岸に、変な祠がある」
そう言われて、俺と大塚も川岸まで出た。対岸の木立の影に、それは確かにあった。鳥居はなく、石でできた円柱形の祠だった。屋根も同じように丸く、どこか筒を伏せたような形をしている。神社で見る四角い祠とは明らかに違う。
奇妙だったのは、その根元に花が供えられていたことだ。枯れていない。色もまだ鮮やかで、今日か昨日に置かれたとしか思えなかった。しかし、周囲には人が歩いた形跡がない。道もない。人の気配だけが、すっぽり抜け落ちている。
誰かが管理してるんだろ、と川村が言った。そういうことにして、俺たちはそれ以上気にしなかった。あの時、引き返していればよかったのだと思う。
夜になり、焚き火を囲んで騒いだ。笑い声が川面を滑って、闇に吸い込まれていく。虫の声と水音が混じり合い、時間の感覚が曖昧になっていった。
片付けを始めた頃だった。
「てぇぇ……」
最初は風の音かと思った。川下から、引きずるような、濡れた声が流れてきた気がした。川村の悪ふざけだと思って睨むと、奴は無言で首を振った。
「今の、聞いた?」
答える前に、もう一度聞こえた。
「てぇぇ……」
今度は全員が聞いた。背中を冷たいものが這い上がる。笹原が対岸を指さして叫んだ。
「あそこ、人がいる」
祠のそばに、小さな影が立っていた。月明かりに照らされて、着物姿だと分かる。背丈は低く、十歳前後の女の子に見えた。両手で顔を覆い、俯いたまま動かない。
「てぇぇ……」
声は、その子から出ているようだった。
川村が舌打ちをして立ち上がった。
「こんな山奥で何してんだ。親はどこだ」
そう言いながら、川を渡ろうとした。止める間もなかった。川村は石を踏み、女の子の前まで行った。
「おい、危ねえだろ。早く帰れ」
女の子は顔を隠したまま、肩を小刻みに揺らした。そして、くぐもった声で笑った。
「見たい? 見たい?」
意味が分からなかった。川村の眉間に皺が寄る。
「ふざけんな」
川村はその子の手首を掴み、無理やり顔から引き剥がそうとした。
次の瞬間だった。
川村が耳を裂くような悲鳴を上げ、その場に倒れ込んだ。地面に転がり、身体を大きく反らせ、痙攣する。白目を剥き、喉から泡のような声を漏らしていた。
俺たちは慌てて駆け寄り、何とか川村を担ぎ上げてテントに運び込んだ。その間も、外では女の子の声が響いていた。
「見たい? 見たい?」
祠の方から、低く引きずるような声が重なる。
「てぇぇ……」
携帯電話は圏外だった。何度確認しても表示は変わらない。息が詰まりそうな沈黙の中で、俺は一人で助けを呼びに行くと言った。残る三人は川村から目を離せず、反論できなかった。
懐中電灯を握り、川辺を離れて走った。闇が濃く、足元が見えない。息が切れ、視界が滲む。
前方に、人影が立っていた。
女の子だった。さっきと同じ着物。顔を手で覆い、俺の方を向いている。
「見たい? 見たい?」
声が近い。逃げようとしたが、足がもつれた。別の方向へ走っても、次の瞬間には同じ声が背後から聞こえる。
「見たい?」
俺は目を閉じ、視線を逸らし、ただ走った。
やがて、街道の灯りが見えた。安堵した瞬間、足首に冷たいものが絡みついた。引き倒され、地面に叩きつけられる。振り向けない。背後で、あの声が囁く。
「見たい?」
頭の奥が歪み、視界が揺れる。意識が遠のく中で、トラックのヘッドライトが俺を照らした。運転手の叫び声が聞こえた。
次に目を覚ましたのは病院だった。
川村も運ばれてきたと聞いた。命に別状はなかった。ただ、何度問いかけても、川村は首を横に振るだけだった。
「分からない。何も……思い出せない」
後日、あの場所について調べたが、円柱形の祠の記録はどこにもなかった。地元の古老も知らないと言った。
ただ一つだけ、忘れられないことがある。
祠の根元に供えられていた花だ。あの形の祠に、誰が、何のために、花を供えていたのか。
今でも夢の中で、あの声が響く。
「見たい?」
目を覚ますと、無意識に両手で自分の顔を覆っている。その時、胸の奥がざわつく。
あの夜、もし川村が見たものを、俺も見てしまっていたら。
あの花が、誰のためのものだったのかを理解してしまっていたら。
そう考えるたび、答えのない問いだけが、静かに残り続けている。
[出典:255 1/7 sage New! 2012/05/03(木) 01:44:34.64 ID:HPNJqzKn0]