うちの地元では、海に近づいてはいけない日がいくつかあった。
盆の海に入るな、というのはどこにでもある話だと思う。足を引かれるとか、帰ってきた者に連れていかれるとか、大人たちは似たようなことを言った。
ただ、峰ノ州だけは別だった。
そこは地元の人間がそう呼んでいる浅瀬で、干潮のときだけ磯が長く現れる。外から来た人には、少し沖に張り出した岩場くらいにしか見えない。潮が引いていれば歩けるし、魚もよくつく。実際、普段なら釣り場として悪くなかった。
その日、僕は友人の徳宮と釣りに行く約束をしていた。
徳宮の家には、引退した漁師の祖父がいた。昔は小さな船を出していた人で、海のことになるとやたら口うるさかった。その祖父が、僕らの竿を見て言った。
「今日から明後日までは、峰ノ州へ行くなよ」
徳宮は「行かないよ」と軽く返した。
祖父は笑っていた。けれど、目だけが笑っていなかった。
「あそこはな、何かあっても助けられん」
それだけ言うと、もうこちらを見なかった。
僕らは自転車で海へ向かった。徳宮はまだ原付の免許を持っていなかったし、僕もガソリンを入れに行くのが面倒だった。防波堤までは十五分ほどだった。
釣り場に着くと、見慣れない四駆が停まっていた。
車のそばに、大学生くらいの男が二人いた。竿やクーラーボックスは出しているのに、釣りをしている様子はない。防波堤に腰かけて煙草を吸い、時々、峰ノ州のほうを見ていた。
徳宮が小さく言った。
「よそもんだな」
僕らは少し離れた場所で釣りを始めた。しばらくすると、パーマのかかったほうの男が声をかけてきた。
「ここって釣れる?」
人当たりはよかった。もう一人はあまりしゃべらず、徳宮の仕掛けを横目で見ていた。
僕らが答えると、二人は缶コーヒーをくれた。釣りの話をしているうちに、彼らの仕掛けがこの場所には合っていないことが分かった。狙っている魚も、防波堤より峰ノ州のほうにつく魚だった。
僕は、つい言ってしまった。
「それなら、あっちの州のほうがいいですよ。潮が引いてるときなら歩けます」
徳宮が一瞬こちらを見た。
でも、何も言わなかった。
二人は峰ノ州の場所を確かめると、礼を言って車に道具を積んだ。大学生なら大人だし、危なければ戻ってくるだろう。僕はそう思った。祖父の言葉も、そのときは古い漁師の脅し話くらいにしか感じていなかった。
四駆が遠ざかっていったあと、徳宮がぼそっと言った。
「爺ちゃん、怒るかな」
「別に俺らが行くわけじゃないし」
僕がそう返すと、徳宮は黙った。
午後の海は穏やかだった。小魚は何匹か釣れたが、大した釣果ではなかった。曇りはじめて、海の色が急に鈍くなった。風も少し変わった。生ぬるいのに、肌の上だけ冷えるような風だった。
遠くの峰ノ州に、二人の姿が見えた。
岩場の先のほうで竿を持っている。こちらから見ても、かなり奥まで行っているのが分かった。
「釣れてんのかな」
徳宮が言った。
そのとき、二人がこちらに向かって手を振った。
僕らは反射的に振り返した。遠すぎて顔までは見えない。けれど、二人の手の動きは、挨拶にしては大きすぎた。
「呼んでないか」
僕が言うと、徳宮は返事をしなかった。
それから、しばらく二人を見ていた。
変だった。
峰ノ州は、海に向かって細長く出ている。そこを歩いて戻るなら、横に移動して見えるはずだった。けれど二人は、こちらから見て同じ場所に立ったまま、少しずつ低くなっていった。
最初は膝まで水に浸かっているように見えた。
次に腰。
その次に、胸。
潮が満ちてきたのだと思った。そう思おうとした。けれど、潮の満ち方なら周りの岩も同じように沈むはずだった。岩はまだ見えていた。二人だけが、海の中へ沈んでいくように見えた。
徳宮が道具を片付けはじめた。
「おい、助け呼ぶか」
僕が言うと、徳宮は竿を畳みながら首を振った。
「間に合わん」
その声が変だった。諦めているというより、すでに何かを知っている人間の声だった。
峰ノ州では、一人の姿が頭だけになっていた。もう一人がその腕をつかもうとしているように見えたが、次の波で二人は離れた。
頭だけになったほうが、まだこちらを向いていた。
顔は見えない。
ただ、口だけが動いているように見えた。
風で声は届かなかった。
次の瞬間、その頭が海面から消えた。
残った一人は、岩の上を這うようにして戻ろうとしていた。足を取られて倒れ、また起き上がる。波はそれほど荒くない。なのに、その男の体は何度も同じ場所に引き戻された。
徳宮が急に僕の腕をつかんだ。
「あれ」
男の足元に、白いものが見えた。
波頭だと思った。白い泡が岩に絡んでいるだけだと思った。けれど、それは何度も同じ形で現れた。水の中から伸びて、男の足首のあたりに触れて、引く。
手に見えた。
そう言うしかないものだった。
僕は走った。近くの民家まで自転車を飛ばし、警察と消防を呼んでもらった。戻ったとき、徳宮は防波堤に座り込んでいた。峰ノ州には、もう誰もいなかった。
警察にも消防にも、僕らは同じことを話した。
大学生風の二人がいたこと。峰ノ州を教えたこと。沈んでいくのを見たこと。
白いもののことは、徳宮が言わなかったので、僕も言わなかった。
一人の遺体が見つかったのは二日後だった。峰ノ州からずいぶん離れた場所に上がったらしい。もう一人は、最後まで見つからなかった。
あとで徳宮が祖父に聞いた。
峰ノ州は何なのか。どうしてあの三日間だけ行ってはいけないのか。
祖父は詳しいことを言わなかった。ただ、低い声でこう言ったという。
「助けられんと言ったろう」
それから徳宮は、峰ノ州の話をしなくなった。
数年後、一度だけ、徳宮が一人であそこへ行こうとしたことがある。防波堤までは行けたらしい。けれど、峰ノ州が見える場所に立った瞬間、足が動かなくなったと言っていた。
「怖かったのか」と聞くと、徳宮は首を振った。
「違う。向こうで、誰かが手を振ってた」
大学生たちのことを、僕はいまでも思い出す。
申し訳ないとは思っている。僕が教えなければ、彼らは峰ノ州へ行かなかったかもしれない。
けれど、それより嫌なことがある。
あの日、最初に二人がこちらへ手を振ったとき、僕らは振り返した。
あれが助けを求める合図だったのか、それとも、別の何かへの返事だったのか。
今になっても、分からない。
ただ、そのあとから、海の近くで誰かに手を振られるのが苦手になった。
遠くの人影が、こちらに向かって腕を上げる。
そのたびに、僕は自分の手を押さえる。
勝手に振り返してしまわないように。
[出典:661 :本当にあった怖い名無し :04/08/25 16:06 ID:GjSKYK1L]