これは、ある男から直接聞いた話だ。
その男は、生まれつき、死んだ人間やこの世のものではない何かが見えるという。
ただし、祓えるわけでも、未来がわかるわけでもない。ただ見えて、向こうも自分に気づくことがある。それだけだそうだ。
事故現場の近くに立っている薄い影や、病院の廊下の端で座っている人影は、たいてい自分が死んだことをまだ飲み込めていない。男と目が合うと、たいてい困ったように目をそらす。だから彼も、そういうものには深入りしない。見えても放っておく。それが一番ましな付き合い方だと、子供のころに覚えたらしい。
そのきっかけになったのが、近江の山あいにあった実家の神社での出来事だった。
男の家は、父、祖父、曽祖父と続く古い神社だった。幼稚園に上がる前から、彼は境内の裏の小山で遊んでいた。裏山といっても子供の足で十分に回れる程度のもので、下草の切れた先に、小さな池がひとつあった。底まで見える澄んだ水で、脇には大きな岩がある。彼は毎日そこで遊んだ。岩によじ登っては飛び降り、池をのぞき込み、虫を追いかけた。
父には池へ近づくなと何度も言われていた。
だが、子供にとって禁じられた場所は、たいてい一番面白い。
その池のそばで、彼はたけちゃんに会った。
浅葱色の着物を着た、自分より少し年上に見える子供だった。草履を履いていて、妙に足音がしなかった。顔立ちは女の子みたいにきれいで、何を聞いてもあまり喋らない。ただ、彼が岩に登れば下で見ていて、虫を探せば先に見つけて、手のひらに乗せて見せた。男はその子の名前を知らなかったが、勝手にたけちゃんと呼んだ。そう呼ぶと、その子は少しだけ笑った。
それから毎日のように二人で遊んだ。
たけちゃんは、池の向こう側へは行かなかった。
池の縁を回り込むようなこともしなかった。
いつも同じ場所にいて、気がつくと立っていた。
子供のころの男は、それを少しも変だと思わなかった。
ある日、池の底に丸く光る石を見つけた。男は夢中になって身を乗り出し、そのまま滑って池に落ちた。
思っていたより深かったらしい。足が着かなかった。水は冷たく、上も下もわからなくなり、口を開けて水を飲んだ。苦しくて手足を振り回したとき、誰かに腕をつかまれた。次の瞬間には岸に転がっていた。
目の前に、たけちゃんがいた。
相手も子供だった。なのに、自分は引き上げられていた。
そのときは助かった安堵の方が大きく、何も考えなかった。
濡れたまま家に戻ると、母にひどく叱られた。泣きじゃくる彼を母は納屋へ押し込み、しばらくそこで頭を冷やしていなさいと言って戸を閉めた。
暗くて狭くて、土と古い藁のにおいがした。彼は怖くて泣き続けた。
どれくらい経ったころか、納屋の奥に誰かが立っていた。
たけちゃんだった。
戸は閉まっていたはずだったが、いつの間にか中にいた。たけちゃんは何も言わず、ただ彼のそばにしゃがんだ。濡れた髪を撫でるでもなく、慰めるでもなく、じっと隣にいた。それだけで彼は泣きやんだ。怖くなくなって、そのまま眠ってしまったらしい。
あとで母に聞くと、迎えに来たとき、彼は納屋の隅で一人で寝ていたという。
ただ、その直前まで、戸の前で誰かと話している声がしていたと母は言った。
近所の子が入り込んだのだろうと、そのときは思ったそうだ。
それから数年が過ぎた。
男が八つになった年の夏、たけちゃんが小さな黄色い実を持ってきた。梅のようにも見えたが、見たことのない果実だった。彼は喜んで受け取った。たけちゃんは池の水で洗えという仕草をした。二人で池の縁にしゃがみ、実を水にくぐらせて、その場でかじった。強い酸味があって、口の奥がしびれた。おいしくはなかった。それでも彼は、たけちゃんにもらったことが嬉しかった。
残った半分を握ったまま家に帰り、母に見せた。
最初は母も笑っていた。
だが父がそれを見た途端、顔色が変わった。
彼の手の中にあったはずの実は、もう果物の形をしていなかった。
皮は黒く縮み、中身は透けたゼリーのように崩れ、指の間からどろりと垂れた。さっきまで噛んでいたはずのものとは思えなかった。
「どこで洗うた」
父にそう聞かれ、彼が池の方を指さすと、父は何も言わず彼を抱き上げた。そのまま祖父の部屋へ駆け込み、ほとんど怒鳴るような声で何かを告げた。祖父は彼の口を無理に開かせ、舌の色を見て、すぐに神棚の前から紙と木箱を持ち出した。
そのあたりから、彼にもただ事ではないとわかった。
父も祖父も、彼を見ていなかった。
彼の向こうにいる何かを見ているようだった。
部屋の中で低い声が続いた。祝詞のようでもあったが、彼の知っているものとは違った。祖父は紙を切り、何かを書きつけ、父は彼の肩を押さえつけた。吐け、吐き出せ、と何度も言われたが、何を吐けばいいのか彼にはわからなかった。
そのとき、表で大きな声がした。
村の農家の男が血相を変えて駆け込んできて、裏の池のことで何か叫んでいた。言葉はほとんど聞き取れなかったが、「浮いとる」とだけははっきり聞こえた。
父が一瞬そちらへ向いた。
彼もつられて縁側を見た。
たけちゃんが、そこに立っていた。
いつものたけちゃんではなかった。
髪は腰のあたりまで白くのび、濡れたように貼りついていた。子供の顔なのに、目だけが年を取った人間みたいに冷えていた。浅葱色だった着物は色を失って、池の底の泥のように見えた。
それでも顔だけは、いつものようにきれいだった。
たけちゃんは微笑んだ。
助けてくれたときと同じ、やさしい顔だった。
「迎えに来るから、待っててくれ」
彼が「いつ」と聞くより先に、祖父が白い布を頭からかぶせた。視界が塞がれたまま抱えられ、車に押し込まれた。泣き叫んでも誰も答えず、その日のうちに母方の祖父母の家へ連れて行かれた。
そこで母から、もう神社には戻れないと告げられた。
池はその夜のうちに埋められたらしい。
小山にも結界を張り直し、社殿の裏には誰も入れなくなった。
神社はそのあと遠縁に譲られ、父たちも土地を離れた。
たけちゃんが何だったのか、家の者は最後まで教えなかった。
ただ一度だけ、酒を飲んだ父が、あれはあの池のものではない、と呟いたことがある。
では何なのかと聞いても、それ以上は言わなかった。
男はそれ以来、見えるようになったという。
薄い色をした死者も、名のつかないものも、前よりはっきり見えるようになった。
けれど、向こうから話しかけてくることは滅多にない。
こちらを見つけると、たいてい目をそらす。
ただ、ごくまれに、そらさないものがいる。
草履の音もないのに、すぐ後ろまで来るものがいる。
視線を向けると、子供の背丈で立っている。
顔は見えない。
見なくてもわかるらしい。
だから男は、池のある土地には住まない。
子供が遊ぶのを見かけると、理由も言わず止める。
そして、誰かにこの話をした夜は、決まって戸締まりを二度確かめる。
一度だけ、こんなことがあったそうだ。
取材でこの話を聞いた翌朝、俺の机の上に、見覚えのない小さな黄色い実がひとつ置かれていた。
梅に似ていたが、もっと皮が薄く、指でつまむと、ひどくやわらかかった。
気味が悪くてすぐ捨てた。
洗ってはいない。
だが、あの男はそれを聞いても驚かなかった。
ただ少し黙ってから、静かにこう言った。
「池の水に触れてないなら、まだ向こうのものじゃないです」
そう言ってから、ほんの少しだけ困ったように目を伏せた。
「でも、話を聞いた人のところに先に来ることは、あるみたいです」
(了)