上京してまだ間もない頃だった。
街は、私を受け入れているようで、どこか距離を保っていた。人の吐く息が混じる湿った空気、排気ガスの焦げた匂い、夜になっても眠らない雑居ビルの明かり。知らない音と色ばかりで、胸が少し浮つき、同時にどこか落ち着かなかった。
その日の午後から、身体の調子がおかしくなった。最初は風邪だと思った。熱が出て、汗をかいて、数日寝れば治る。上京してから何度も聞いた、ごく普通の話だ。
だが、夕方には立ち上がるたびに視界が狭まり、床が遠く沈んだ。喉は乾き切り、唾を飲み込むだけで痛む。指先から、骨の奥へ、じわじわと冷たい痛みが染み込んでくる。布団の中で身体を丸めても、寒気は抜けなかった。
二日目には、水を飲む力もなくなった。天井を見つめ、時計の針が動く音だけを数えていた。耳に入るのは、自分の心臓の鼓動ばかりで、外の世界は水の底のように遠かった。
そのとき、玄関の方から音がした。
ガチャ、と金属が擦れる乾いた音。
鍵が回る音だった。
頭が働くより先に、胸が強く脈打った。誰かが来るはずはない。連絡もしていない。友人もいない。管理会社の人間が、こんな時間に来る理由もない。
ドアが開いた。
足音が、部屋の奥へ近づいてくる。
そこに立っていたのは、母だった。
いつもと同じ服。いつもと同じ顔。見慣れた立ち姿。あまりにも自然で、疑問が浮かぶ前に、安心が先に来てしまった。
「熱、あるでしょ」
声も、記憶の中の母と同じだった。
「どうしたの、こんなになるまで」
私は喉を鳴らして、ようやく言葉を出した。
「……風邪、ひいたみたい」
母はうなずき、布団の脇にしゃがんだ。
「食べてない顔だね」
「……うん」
「病院、行かなきゃ」
その言い方に、命令の色はなかった。昔からそうだった。ただ、そうするのが当たり前だという調子。私は頷こうとして、ふと違和感に引っかかった。
どうして、母がここにいる。
上京したばかりで、住所は知らせていない。電話も、かけていない。連絡を取る力すら、なかった。
そういえば、電話の音を聞いた気がする。何度か、遠くで鳴っていた。取ろうとしたのか、それとも夢だったのか、思い出せない。あれは、母だったのだろうか。
「ねえ」
母が笑った。少しだけ、寂しそうに見えた。
次の言葉を聞く前に、意識が沈んだ。水に引き込まれるように、何も考えられなくなった。
目を開けると、白い天井があった。消毒液の匂い。点滴の管。
「気づいたか」
声の方を見ると、父がいた。ひどく疲れた顔をしていた。
「肺炎だ。もう少し遅れてたら、危なかった」
喉が痛くて、声が出なかった。
「一週間、寝てたんだぞ」
母の姿が、頭に浮かんだ。
「……お母さんは」
かすれた声でそう言うと、父は一瞬だけ目を伏せた。
「風邪ひいて、寝てる」
それだけ言って、話を切り上げた。私はそれ以上、聞けなかった。目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。
夢の中で、母は台所に立っていた。卵酒を作っている。小さい頃、熱を出すたびに飲まされた、甘くて生臭い匂いの酒。
「あなたは、昔から弱かったね」
湯気の向こうで、母は笑っていた。
「お母さん……」
自分の声で、目が覚めた。
そこにいたのは、妹だった。目が赤く腫れている。
「どしたん」
そう聞くと、妹は一瞬、言葉を探すように口を閉じた。
「……お母さん、死んだんよ」
言葉が、頭の中で意味を結ばなかった。
「交通事故」
それだけで、十分だった。
「いつ……」
ようやく出た声は、自分のものとは思えなかった。
父から、話を聞いた。
母は亡くなったあと、父の夢に出たという。私が東京で倒れていると告げた。場所も、状況も、はっきりと。
東京と実家は遠い。すぐには行けない。父は目を覚ましてすぐ、警察に連絡し、不動産屋に鍵を開けさせた。部屋の中で、私は床に倒れていた。
そのまま、救急車で運ばれた。
妹は泣きながら言った。
「お母さんが死んで……姉ちゃんまでって……」
父は、静かに続けた。
「夢の中でな。お母さんは言ってた。連れて行かない、って」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が崩れた。
泣かないつもりだった。だが、嗚咽は勝手に溢れた。
母は、私を助けるために来たのだろうか。それとも、迎えに来て、やめただけなのか。
もし、私がもう少し弱っていたら。もし、意識が戻らなかったら。あのとき、母は何と言ったのだろう。
鍵を回したのは、誰だったのか。
あの足音は、本当に母だったのか。
病室の天井を見ながら、考え続けた。
生きている理由が、祝福なのか、取り残された結果なのか、わからなかった。
夜になると、夢を見る。母が立っている。何も言わず、こちらを見ている。卵酒はない。ただ、待っているようにも、見送っているようにも見える。
目を覚ましても、部屋は静かだ。だが、玄関の方から、金属が擦れる音がすることがある。
ガチャ、と。
私は、確かめに行かない。
あの日、母が来たのかどうか、今でもわからない。
ただ一つ確かなのは、私はまだ、ここにいるということだけだ。
そして時々、思う。
あのとき目を覚まさなかったら、
次に声をかけたのは、誰だったのだろうか。
[出典:837 :あなたのうしろに名無しさんが……:03/09/25 21:14]