夫のことを、ただの「人がいいだけの男」だと思っていた。
疑うことを知らず、家事を押し付けても育児を放り出しても、にこにこと「疲れてるんだろ、俺がやるから休んでて」と言う、あまりに素直すぎる男。だからこそ、浮気なんてものはバレてないと、どこかでたかを括っていたのだ。
ところがある日、義両親から呼び出しを受けた。居間に座らされ、畳の上に広げられたのは興信所の報告書。
メールのコピー、写真、子供のDNA検査の結果……一枚一枚が、あたしの背骨を氷のように凍らせていった。
姑が冷たい声で言った。
「綾乃さんは浮気をしている。だから別れなさい」
耳の奥がじんじんして、視界が白く霞んだ。顔から血の気が引いていくのがわかった。
その時、夫が隣で口を開いた。
「知ってた」
ぽつりと落ちたその一言は、雷の直撃みたいにあたしを打ち抜いた。
知らなかったはずがないと思っていた。
でも夫はただ笑って、いつも通りにしていた。怒るでもなく、詰め寄るでもなく。
――まさか。
姑と舅が「正気に戻れ」「騙されている」と口々に言い募る中で、夫は声を張り上げた。
「絶対に別れない」
両親に向かってきっぱり言い切り、あたしの手を取って家を出た。背後で姑の怒鳴り声が響いていたが、夫はどこか浮き立つような顔をしていた。
「何で笑ってるの」
思わず問いかけると、彼は子供のように言った。
「楽しいから」
怖さがじわじわ込み上げてきて、あたしは重ねて聞いた。
「怒ってるよね?」
「怒ってない」
「別れなきゃだめ?」
「だから、別れないって」
何をすればいいか尋ねても、夫は「何もしなくていい」と答えるばかり。好きなことをしてほしい、浮気だってしていい、俺はしないけど――と。
その異様な笑顔に押されて、「じゃあ、どういうつもりなの」と詰め寄った。
すると夫は机からノートパソコンを取り出し、あたしの名前をパスワードにしたフォルダを開いた。
中には無数の写真。
台所で振り返った顔、寝起きの顔、誰にも見られていないはずのだらけた姿……全部、隠し撮りだった。
背筋が冷たくなったけれど、もっと恐ろしかったのは、その中に小学生の頃のあたしが写っていたことだった。
運動会のグラウンド、校舎の廊下、発表会の舞台。確かに当時、学校が撮影して、希望者に販売した写真だ。自宅にも同じものが何枚か残っている。でも夫はあたしより四歳上で、学年が違う。どうして彼が手に入れているのか、見当がつかない。
夫はへらへら笑いながら言った。
「ごめん、引くよね」
「浮気してるのも、子供の親が俺じゃないのも知ってた。でも好きだから結婚した。好きだから、実は全部知ってるんだって言ったら、どんな顔するかなって……考えるとわくわくしてた。この写真だって、別にストーカーってわけじゃない。ただ、見せつけたらどう反応するかと思って……」
耳が拒否するようにジンジンして、涙が勝手に溢れた。
泣いているあたしを見て、夫はやわらかく言った。
「笑ってるほうが好きだけど、泣いてるのも好き」
その言葉で、膝が抜けて床に崩れ落ちた。
――ここからどうしたらいいのか。
泣きながら怒っても、夫はうれしそうに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
逃げ出したいと心の底で叫んでいるのに、表面上は「守られている」ように扱われる。
友達に相談できるわけがない。裏切ったのはあたしだ。
弁護士を立てて離婚を進めようとすれば、法的に徹底的に叩きのめされるだろう。
もし家を飛び出しても、夫は必ず探し出す。草の根分けても、と笑顔で言うに違いない。
夜、寝返りを打つたびに気配を感じる。
眠ったふりをしても、視線が肌を刺す。
ある晩、目を閉じたまま耳を澄ますと、夫の小さな声が聞こえた。
「……小さい頃から、ずっと見てた」
「どんな大人になるか、楽しみだった」
「やっと手に入った」
呼吸が止まりそうになった。息をひそめ、心臓の鼓動だけが耳の中で爆音のように響く。
彼の声は、寝室の闇にとけていった。
――ここはもう、牢獄だ。
笑顔という鎖で縛られ、逃げ場を失ったあたしは、朝になるたび、夫の差し出す優しい手を取らざるを得ない。
差し伸べられるその手は、やわらかく温かい。だけど、その奥には底の見えない井戸のような暗さが潜んでいる。
あたしはそれを、見てしまった。
もう見なかったふりはできない。
逃げ場がないと知った瞬間、心が音もなく折れた。
笑顔を作ることさえ、もはや抵抗なのか従属なのか分からない。
そして今日も、夫は楽しそうにあたしの隣で笑っている。
その笑顔が、誰よりも恐ろしい。
[出典:2013/11/23(土) 18:23:52.12 0]