これは怪談ではない。だが、私にとっては忘却できない出来事であり、今も決算書を見るたびに思い出す話だ。
私は外資系製造企業に勤めていた。昨年、C国への出向を打診された。内戦終結からまだ十年足らずの国で、当社は現地法人を通じて工場を所有していた。任務は、日本で運用している生産管理システムの導入と技術指導。期間は一年、危険手当込みで待遇は悪くない。契約書には「安全管理は現地法令および現地基準に準拠する」とあった。
赴任直前、前任者の田中氏と食事をした。彼は健康上の理由で帰国するという。頬がこけ、視線が落ち着かなかった。別れ際、彼は一言だけ言った。
「倉庫の裏の丘には近づくな。業務上の注意だ」
理由は説明しなかった。
C国の工場は農村地帯にあった。内戦中、この一帯は武装勢力の通過点だったと聞く。統計によれば、内戦後も国内には数百万個規模の不発弾・地雷が残存していると推計されている。撤去は進んでいるが、優先順位は市街地からだ。工場周辺は後回しになっていた。
工場では、夫を亡くした女性が優先的に雇用されていた。福利厚生の一環とされている。昼休みになると、その子どもたちが敷地周辺で遊んでいた。私は彼らと顔見知りになり、サッカーの相手をすることもあった。
ある日、Kという少年が「面白い場所がある」と言った。妹のMも一緒だった。倉庫脇の林を抜けると、視界が開けた。なだらかな丘のような空き地。地図上では工場の敷地内に含まれる区画だ。立入禁止の表示はあったが、有刺鉄線は所々で切られていた。盗難だと総務から聞いたことがある。
数日後、再びその場所へ行った。私は木陰に腰を下ろし、二人がボールを追うのを眺めていた。ふと倉庫の屋根が見え、田中氏の言葉を思い出した。戻ろうと声をかけかけたとき、Mが木立の近くで何かを拾おうとしゃがみ込んだ。黄色い玩具のように見えた。
次の瞬間、腹の底に響く爆音がした。
Mは倒れていた。私は駆け寄ったが、状況は明白だった。現地警察と工場の安全担当が到着し、現場は封鎖された。報告書には「不発弾の一種と推定」「立入禁止区域への侵入」と記載された。
事故後、緊急の安全会議が開かれた。議事録には次のように残っている。
・当該区域は立入禁止表示済み
・有刺鉄線は盗難被害あり
・現地当局に撤去要請済み
・遺族に対し見舞金を支払う
見舞金は現地平均年収の数倍に相当した。会社にとっては軽微な特別損失だが、遺族にとっては数年分の生活費になる。支払いは迅速だった。現地紙にも小さく報じられた。
私は休職を申し出た。だが手続き上、事故報告書に署名しなければならなかった。署名欄の肩書きは「現地責任者代行」。私の名前が印字された。
帰国後、田中氏に会った。彼は私を見ると、深く息を吐いた。
「君もか」
彼のときは男の子だったという。赤い地雷だった、と彼は言った。事故後、一か月ほどで、また別の子どもが丘へ入った。有刺鉄線はそのときもなかった。
「撤去費用は見積もりを取った。高かった。優先度は低いと本社は判断した」
彼は淡々と語った。
翌年度の決算資料を、私は本社で目にした。C国工場は黒字を計上している。社会貢献活動のページには、現地雇用の拡大と遺族支援の写真が掲載されていた。笑顔の子どもたち。その背後に、見覚えのある丘の稜線が写っていた。
丘は今も会社の資産として計上されている。評価額に変更はない。撤去計画は「中長期課題」とされている。
私はときどき考える。あの日の爆音は事故だったのか、それともコスト計算の結果だったのか。判断を下したのは誰か。あるいは、誰でもなかったのか。
契約書の一文が、今も頭に残っている。
「安全管理は現地基準に準拠する」
それは法的には正しい。合理的でもある。だが、その合理性の上に立って、私の署名は今も残っている。
(了)