俺が火葬場でアルバイトをしていたのは二十代の終わり頃だ。
斎場は地方都市の外れにあり、山と川に挟まれた、周囲から少し切り離された場所だった。朝は早く、仕事の多くは清掃や準備で、遺族と直接話すことはほとんどない。火を扱う場所だが、現場は淡々としていて、感情を持ち込まないことが暗黙の了解だった。
その日も、開場前に玄関先を掃いていた。まだ霧が残っていて、音が吸い込まれるような静けさだった。そこへ、舗装されていない駐車場に、黒いSUVが勢いよく入ってきた。エンジン音がやけに大きく響いたのを覚えている。
車から降りてきたのは中年の男だった。服装は派手でも地味でもないが、全体に不自然な整い方をしていた。腕時計が目に入った。文字盤が大きく、重そうで、光を吸わない。視線が合う前に、男は言った。
「焼いてくれ」
挨拶も名乗りもなかった。遺体は車の後部にあるらしい口ぶりだった。通常の手続きではあり得ない。俺は一度断り、規則を説明しようとしたが、男は被せるように言った。
「話は通ってる。時間がない」
その言い方が、命令でも脅しでもなく、事務的だったのが妙に印象に残った。俺はその場で判断できず、待ってもらって斎場長のところへ行った。事情を伝えると、斎場長は少しも驚かず、短く言った。
「やれ」
理由は聞かされなかった。声の調子も、いつもと変わらない。俺は戻り、男を中へ案内した。遺体はすでに棺に納められていた。棺は新しく、傷もなく、臭いもほとんどしなかった。
中を確認するのは決まりだ。棺を開けると、若い男の顔が見えた。三十前後だろうか。顔色が妙に良く、血の気が引いた感じがない。眠っていると言われれば、そう見えなくもなかった。目立った外傷もなく、死因はわからなかった。
確認を終え、棺を閉じる。男はその間、少し離れた場所で腕を組み、こちらを見ていた。視線は合わなかった。何か言うでもなく、ただ立っていた。
炉に棺を入れ、火を入れる。作業はいつも通りだった。点火からしばらくは、機械音と低い燃焼音だけが続く。俺は操作室で計器を見ていた。
二十分ほど経った頃だった。炉の奥から、鈍い音がした。金属が内側から叩かれたような音だった。一度ではなく、間を置いて、もう一度。ドン、という短い音。耳鳴りのような静寂の中で、それだけがはっきり聞こえた。
一瞬、操作室の空気が変わった気がした。俺は手を伸ばしかけて止めた。炉を止めるべきか、確認するべきか、判断がつかなかった。音は続かなかった。計器に異常は出ていない。
それでも、手が震えていた。頭の中に、確認したときの顔が浮かんだ。あの色は何だったのか。考えがまとまらないまま時間だけが過ぎた。予定の時間を過ぎても、炉を開ける気になれなかった。
気づくと、あの男はいなくなっていた。いつ出ていったのかもわからない。待合室も、駐車場も静まり返っていた。
俺は斎場長を呼びに行き、音のことを伝えた。斎場長は少し黙り、それから一緒に操作室へ来た。炉を止め、ゆっくりと扉を開ける。中から、肉が焦げたような匂いが流れ出た。
トレイを引き出した瞬間、視界が揺れた。棺は崩れていて、中のものが露出していた。完全に焼けていない。形が残っている。うつ伏せのようにも、そうでないようにも見えた。俺はそこまでしか覚えていない。
次に意識が戻ったとき、床に寝かされていた。斎場長がそばにいた。何がどうなったのか、聞くこともできなかった。斎場長は「もういい」とだけ言った。
数日後、斎場長が俺の部屋を訪ねてきた。封筒を置き、何も言わずに帰っていった。中には現金が入っていた。数える気になれず、そのまましまった。
それ以来、火葬場には戻っていない。あの日のことは、誰にも話していない。話そうとすると、どこからが事実で、どこからが自分の想像なのか、わからなくなる。
今も、夢を見る。音だけがする夢だ。何かを叩く音。内側から。目が覚めたとき、あの棺の中を、俺は本当に見たのかどうか、判断がつかなくなっている。
[出典:256名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2007/02/05(月)14:39:10ID:y2fws4fi0]