これは、数年前に友人の田端と釣りに出かけたときの話だ。
場所は奥多摩にある白丸ダム。地元の釣り好きが「隠れた名所」と囁く場所で、夜釣りにはもってこいの静けさが広がる場所だった。
暗闇の中、ヘッドランプを頼りに道具をセッティングし、釣り糸を垂らしたのは深夜過ぎ。竿先に鈴をつけ、田端と軽い会話を交わしながら待つ。だが、その夜は妙に静かで、魚の気配がほとんど感じられない。
ふいに、鈴が微かに揺れた。「ちり…ちり…」と小さな音を立てて。
反射的に竿を握りしめたが、期待していた魚の手応えはない。それどころか、リールを巻くたびに何か重い感触が腕に伝わってきた。嫌な予感がしたが、釣り上げたそれを見て全身が凍りついた。
濡れた長い髪の毛。30センチほどの束が、釣り糸に絡みついていたのだ。
妙に艶やかな黒髪が、夜の湿気にぴったりと貼り付いている。田端が叫び声を上げて後ずさる。こちらもパニックで、竿ごと放り投げたい衝動に駆られたが、値段を思い出し、ラインを切って竿だけは回収した。
「もう帰ろう」
田端の提案に異を唱える理由はなかった。明け方まで粘る計画は取りやめ、すぐさま車に乗り込んでダムを後にした。
車内では最初こそ妙な気持ち悪さを語り合ったものの、次第に怪談話に脱線。薄れつつあった緊張感を打ち砕いたのは、田端の沈黙だった。
「おい、寝てんのか?」
運転中のこちらが声をかけると、田端は窓の外を凝視していた。表情は青ざめ、唇が小刻みに震えている。
「どうした?」
田端はしばらく何かをためらっているようだったが、低い声で絞り出した。
「……歩道に、女が立ってる」
その言葉に背筋が凍った。深夜の奥多摩の道沿いに人影などあるはずがない。恐る恐る視線を向けると、そこには確かに、街灯の下でじっとこちらを見ている女性が立っていた。
白っぽい服を着ていて、髪が濡れているように見える。顔まではよく見えないが、その輪郭が妙に不自然で、動きもしない。
「気味悪いな……」
独り言のように呟きながら通り過ぎたが、次の街灯の下にも、同じ女が立っていた。田端が震え声で言う。「まただ……何度も同じやつがいる」
確認するまでもなく、次の街灯でも、そのまた次の街灯でも、同じ女が姿を現した。薄暗い街灯の光に照らされた濡れた髪だけが妙に目立つ。
その後、地元までの1時間余りで、20回以上もその女を目撃した。車内に会話はなくなり、ただ無言で前だけを見据えて車を走らせる。
ようやく地元に到着し、田端を自宅前で降ろした。
「お前、無事に家に着いたら連絡しろよ」
普段なら冗談交じりに軽口を叩く場面だが、そのときはどちらも無表情だった。田端を降ろしてからも不安感は消えず、帰宅後、釣り道具をそのまま玄関に放り出し、布団にもぐりこんだ。
それでも疲労からか、いつの間にか眠り込んでしまった。
翌朝、騒がしい母親の声に叩き起こされた。
「ちょっと!クーラーボックスの中、何なの!?」
釣果はゼロだったはずだ。不思議に思いながら蓋を開けると、中には濡れた「髪の毛」の束がびっしりと詰まっていた。釣り場に捨ててきたはずのあの髪の毛が、なぜか家まで戻ってきていたのだ。
全身に鳥肌が立ち、慌ててクーラーボックスを外に運び出し、そのまま処分した。だが、それ以降も、自宅の玄関先や洗面所、ありえない場所で濡れた髪の毛を見つけることが度々あった。
その後、田端はダム釣りを辞め、俺も釣り場を変えた。だが、あの夜見た女が誰だったのか、なぜ髪の毛が追いかけてきたのか、その答えは今でもわからない。
ただ一つ言えるのは、ダムの夜釣りには、二度と近づかない方がいいということだ。