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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

立ち上がったもの nc+

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私の家には、今はもう人に貸していない小さな平屋の貸家があった。

駅からも遠く、間取りも古い。風呂は深く、天井は低く、畳はところどころ沈んでいた。私が小学生の頃までは細々と借り手がいたが、高校生になる頃には老朽化が進み、修繕費もかさむため賃貸は諦めた。以降は鍵を掛けたまま、年に数回、母が換気と簡単な掃除をするだけの建物になっていた。

人が住まなくなった家というのは、思った以上に早く空気が淀む。
雨戸を閉め切った室内には、埃と畳と古い木の匂いが混ざった、独特の重さが溜まる。母はそれを嫌って、天気の良い日を選び、勝手口から入り、すべての窓を順に開けていくのが習慣だった。

その日も、昼下がりの快晴だった。
空は高く、雲は薄く、勝手口から差し込む光だけで、室内は十分に明るかった。蛍光灯のスイッチには手も伸ばさず、母はいつものように靴を脱ぎ、土間から上がった。

次は玄関の戸を開けようと、廊下を進み、途中にある居間を横切ろうとした。その居間は六畳ほどで、中央に低いちゃぶ台が置ける程度の広さだった。畳は日に焼け、家具はすべて運び出してあり、座布団一枚すら残っていないはずの空間だった。

母が居間に二、三歩足を踏み入れた瞬間だった。
視界の正面、畳の上で、何かがすくっと立ち上がった。

はっきりとした輪郭は見えなかった。
影でも、人の形でもない。ただ、そこに「起き上がる動き」だけが確かにあった。次の瞬間、トントントン、と畳を踏む軽い足音がして、それは母のすぐ脇をすり抜けるように通り過ぎ、今しがた開けたばかりの勝手口から外へ出ていった。

母は声を出すことも、体を動かすこともできなかった。
目には何も映らなかったのに、耳元を、生身の人間の息づかいが確かに通り過ぎた。湿り気を帯びた、近すぎる呼吸の音だった。

その場に立ち尽くしたまま、どれくらい時間が経ったのか、母には分からない。ただ、心臓の音だけが異様に大きく、家の中に響いていたという。

やがて我に返ったとき、母の頭の中に、ひとりの女性の顔が浮かんだ。
この貸家を最後に借りていた人だった。

年配の女性で、物静かだが、笑うと目尻に深い皺が寄る人だった。賃貸中に病を得て入院し、そのまま戻らぬ人となった。家賃の精算や片付けで母が何度か訪ねた際、その女性はいつも同じ場所に座っていた。

居間の、壁から少し離れた位置。
そこに座布団を一枚敷き、ちょこんと正座して、テレビを見るのが日課だったという。母が「どうしていつもそこなんですか」と聞くと、女性は決まってこう言った。

「私はね、この場所が一番落ち着くの」

その言い方が妙に印象に残っていたらしい。
まるで、そこが自分の定位置であることを、誰かに説明する必要があるかのような口調だったと、母は言った。

あの日、母が見た立ち上がる動き。
聞いた足音。
そして、すれ違った呼吸。

それらが、何の説明もなく、その女性の日常と重なった。

母は霊感がある人間ではない。
幽霊やお化けの話を好んですることもなく、そういう話題になると、むしろ話を変えようとするタイプだ。その母が、ある晩、珍しく声を震わせながら、この出来事を語ってきた。怖がらせるためでも、面白半分でもなかった。ただ、誰かに話さずにはいられなかったのだと思う。

それ以降、母は貸家の換気を続けている。
だが、不思議なことに、居間だけは通らなくなった。玄関を開けるときも、廊下側から回り込み、居間の畳を踏まない動線を無意識に選ぶようになった。理由を聞いても、母は曖昧に笑って、答えを濁すだけだった。

居間は今も空っぽだ。
座布団も、テレビもない。
それでも、あの場所だけは、なぜか「人が立ち上がれる余白」を残したまま、静かに家の中央に在り続けている。

[出典:351 :可愛い奥様@\(^o^)/:2017/04/10(月) 03:08:58.02 ID:Qw2XX3lT0.net]

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