夜のビルは、昼とはまったく別の建物になる。
人がいなくなるだけで、音の質が変わる。空調の低い唸り、配電盤の奥で鳴る微かな振動音、遠くの道路を走る車の気配。それらが均等に広がって、建物全体がひとつの生き物みたいに呼吸を始める。
そのビルの警備は、基本的に宿直一人だった。二十階建てのオフィスビルで、夜間は入退館もなく、非常時のみ本社から応援が来る体制。仕事は単純で、定時ごとに館内を巡回し、異常がないかを確認して戻る。それを朝まで繰り返すだけだ。
その夜も、特別なことは何もなかった。
二十二時、零時、二時。決められたルートを歩き、エレベーターを使い、非常階段を使い、各階を確認する。オフィスフロアはどこも真っ暗で、デスクの影が規則正しく並んでいる。誰もいない。いないはずだ。
異変が起きたのは、三時を少し回った頃だった。
警備室でモニターを見ていると、外から鈍い音がした。最初は遠くの工事かと思った。だが、数秒後に非常ベルが鳴り始め、続いて本社からの電話が入った。
飛び降り事故だった。
外に出ると、ビルの正面エントランス付近に人が倒れていた。すでに動かない。救急車と警察が来て、現場は慌ただしくなった。
身元はすぐに分かった。そのビルに勤めている社員だった。
「帰ったはずの人間が、なぜ中にいたのか」
当然、その話になった。
そして次に向けられたのが、俺だった。
見回りは本当にしていたのか。
どこかで見落としがあったんじゃないのか。
言われてみれば、そうだ。あの時間帯、ビルの中に他人がいたなら、気づかないはずがない。隠れる場所なんて、いくらでもあるわけじゃない。
防犯カメラを確認することになった。
警察と管理会社、それに俺も同席して、警備室で映像を再生した。
最初は何も映っていなかった。廊下は空で、エレベーターも動かない。俺が巡回している姿だけが、断続的に映る。
だが、途中で違和感に気づいた。
俺が角を曲がった直後、ほんの数秒遅れて、別の人影が映る。
その社員だった。
最初は偶然かと思った。だが、次のフロアでも同じだった。俺が通過した後、必ず同じ方向から現れる。距離は一定で、近づきすぎず、離れすぎず。
隠れていたわけじゃなかった。
俺の巡回ルートに合わせて、移動していた。
別の映像では、俺がエレベーターに乗る直前、非常階段の影に立っている姿が映っていた。ドアが閉まるのを確認してから、階段を上がっていく。
また別の階では、俺が部屋を出るまで、コピー機の裏で動かずに立っていた。
一箇所に留まることは、一度もなかった。
追いかけていた。
それも、かなり正確に。
時間が進むにつれて、俺の胃の奥が冷えていくのが分かった。画面の中で、俺は何度も振り返らずに歩いている。そのすぐ後ろを、常に誰かが通っていた事実だけが積み重なっていく。
そして、最後の映像。
屋上の非常口前のカメラだった。
俺はその少し前、屋上階の確認を終えて、エレベーターで下りている。
映像には、屋上には誰も映っていない。数十秒後、非常口のドアがゆっくり開き、あの社員が出てくる。
彼はすぐに柵へ向かわなかった。
一度、立ち止まり、首を傾けるようにして下を見た。そのあと、身体の向きを変えて、屋内側を振り返った。
警備室の位置。
俺が戻っているはずの場所の方向だった。
ほんの一瞬、確認するような動作だった。
それから、何のためらいもなく柵を越えた。
音声はない。表情も、画質が悪くてはっきりしない。ただ、確認してから落ちたという動作だけが、はっきりと残っていた。
その場で吐いた。
責任を問われたわけじゃない。だが、頭の中でずっと同じ考えが回っていた。
もし、俺が振り返っていたら。
もし、巡回の順番を変えていたら。
もし、どこかで立ち止まっていたら。
彼は、俺に見つかるかどうかを確かめながら、最後まで建物の中にいた。俺の存在が、行動の基準になっていた。
翌日、俺は「責任を取ります」とだけ言って、そのバイトを辞めた。誰も止めなかった。
今でも、夜に建物の中を歩くと、ふと考えることがある。
自分の後ろを、ちゃんと確認しているだろうか。
そして、誰かがこちらを見て、行動を決めていないだろうか。
見えないからいない、ではない。
気づかなかっただけで、ずっと後ろを歩かれていることもある。
あのビルでは、確かにそうだった。
[出典:840 :本当にあった怖い名無し:2019/04/18(木) 08:24:09.75 ID:KjRrGTJ00.net]