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中編 不動産・物件の怖い話 n+2026

コーポ・サツキ二〇三号室 nc+

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梅雨の走りのような、粘り気のある雨が降る午後だった。

埼玉県の外れ、国道から一本入った路地に建つ「コーポ・サツキ」は、名前の響きとは裏腹に、昭和の終わりに取り残されたような薄墨色のモルタル二階建てだ。外壁には蔦の剥がし跡が黒い血管のように這い、錆びついた鉄骨階段は、誰かが昇り降りするたびに、肺腑を絞るような軋みを上げる。
私は傘を叩き、その雫をアスファルトに散らしてから、二〇三号室の前に立った。
不動産管理の仕事をして十年になるが、この時期の湿気だけはどうしても慣れない。ワイシャツの襟首が汗と湿気でじっとりと肌に張り付き、冷たいような熱いような不快な膜を作っている。胃の腑のあたりには、朝から消化不良の鉛が沈んでいた。

「……またかよ」
喉の奥で悪態をつく。声に出したつもりはなかったが、雨音に混じって自分の声が低く響いた。
二〇三号室は、帳簿上では半年以上も「空室」になっているはずだった。
だが、ここ一週間、近隣住民からのクレームが管理会社へ立て続けに入っていた。「誰かがいる気配がする」「夜中に足音が響く」「水が流れる音がする」。
よくある話だ、と最初は高を括っていた。古いアパートの防音など有って無いようなものだし、隣室の生活音が配管を伝って響くことなど日常茶飯事だ。神経質な住人の幻聴か、あるいは野良猫が入り込んだか。その程度の認識だった。

だが、現実はもっと即物的で、言い逃れのできない証拠を私に突きつけていた。
玄関脇のパイプスペース。その鉄扉を乱暴に開け放つと、カビと鉄錆の匂いが鼻腔を突く。
薄暗いボックスの中、電力メーターの円盤が、異常な速度で回転していた。
銀色の円盤が、黒い目盛りの下を滑るように回っている。
ぐるん、ぐるん、ぐるん。
その回転は、明らかに「待機電力」のレベルではない。冷蔵庫のコンプレッサーが回っている程度でもない。まるで、部屋中の照明をつけ、暖房器具をフル稼働させているかのような勢いだった。
誰かが、いる。
それも、今この瞬間、電気を貪るように消費しながら、この鉄の扉一枚隔てた向こう側で呼吸しているのだ。

苛立ちがこみ上げてきた。
ただでさえ人手が足りず、他の物件の雨漏り対応に追われているのだ。なんで私が、こんな薄汚いアパートの不法侵入者の相手をしなければならないのか。
警察を呼ぶべきか?一瞬、その選択肢が頭をよぎる。
だが、もし中に入って誰もいなかったら?ただの電気の消し忘れだったら?あるいは、前の住人が合鍵を持っていて、少し休憩していただけですでに逃走した後だったら?
警察を呼んで空振りだった場合、始末書を書くのは私だ。その手間を想像すると、恐怖よりも面倒くささが勝った。
私は革靴の爪先で、コンクリートの床を一度強く踏みしめた。靴底から伝わる硬い感触で、自分自身を鼓舞する。
大丈夫だ。相手が誰であれ、所詮はコソ泥か、宿無しの浮浪者だ。管理会社の人間が来たとなれば、蜘蛛の子を散らすように逃げ出すに決まっている。今までだってそうだった。
私は上着のポケットから、ジャラリと重たい鍵束を取り出した。金属同士が擦れ合う音が、雨音の中でやけに鋭く響く。

二〇三号室の鍵穴にキーを差し込む。
カチャリ。
シリンダーが回る感触は、驚くほど滑らかだった。半年間使われていないはずの鍵穴が、まるで昨日も油を差されたかのように抵抗なく回る。その事実に、指先が微かに粟立った。
深呼吸を一つ。湿った空気を肺に入れ、意を決してドアノブを回す。
「管理会社のものだ!誰かいるのか!」
私は腹の底から声を張り上げ、勢いよくドアを押し開けた。

視界に飛び込んできたのは、薄暗い玄関と、その奥に続くダイニングキッチン。
予想していた腐臭や、生ゴミの匂いはなかった。
その代わりに漂っていたのは、もっと異質な匂い。
それは、焦げた埃のような、あるいは使い古された電化製品が帯びる熱のような、乾いた電気的とも言える匂いだった。外の湿気とは対照的な、喉が渇くような空気が、部屋全体に充満している。

私は靴を履いたまま、土足で玄関のタタキを踏み越えた。
床板がミシリと鳴る。
廊下の突き当たり、ダイニングには誰の姿もない。
だが、気配は濃厚だった。
西日が厚い雲に遮られ、室内は夕闇のような青さに沈んでいるが、目が慣れてくると、不自然な点が次々と浮かび上がってくる。
床に積もっているはずの埃が、妙に少ない。
壁紙の端が微かに揺れている。
そして何より、耳鳴りがするほどの静寂。
人がいない部屋特有の「死んだ静けさ」ではない。誰かが息を潜め、筋肉を硬直させて気配を殺している時の、あの張り詰めた「生きた静けさ」だ。

「警察に通報するぞ!今のうちに出てくれば大事にはしない!」
もう一度叫ぶ。
自分の声が、家具のない空っぽの部屋に反響して、耳障りなほど大きく聞こえる。
返事はない。
ただ、雨音が窓ガラスを叩く音だけが、パラパラ、パラパラと続いている。
私は懐中電灯を取り出し、その光を剣のように構えて、一歩ずつ奥へと進んだ。
まずは手前のユニットバス。
ノブを回し、勢いよく開ける。
光を投げ込む。
狭い浴槽、黄ばんだ洗面台、鏡。
誰もいない。
だが、鏡に映った自分の顔を見て、私は息を飲んだ。
酷く青白い。そして、額には脂汗がびっしりと浮いている。自分はこんなにも怯えているのか。その事実を突きつけられたようで、無性に腹が立った。
恐怖をごまかすように、私は乱暴に扉を閉めた。

次はキッチンだ。
シンクの下。収納扉を蹴るように開ける。
空っぽだ。排水管が黒い蛇のようにのたうっているだけ。
上の棚。開ける。何もない。
ゴキブリの死骸一つない。それが逆に不気味だった。生活感がないのに、生活の熱だけが残っている。

残るは、奥の六畳和室のみ。
私は汗ばんだ掌をズボンで拭い、襖に手を掛けた。
襖紙は古く、ところどころ茶色い染みが浮いている。その染みが、人の顔のように見えて、視線を逸らしたくなる。
一気に開ける。
「おい!」
光を薙ぐように走らせる。
変色した畳。
北側の窓。
カーテンレールの歪み。
……誰もいない。
部屋の中央まで踏み込み、360度見渡す。
何もない。
家具も、寝袋も、ゴミ袋すらもない。
完全な空室だ。

「……なんだ、気のせいか」
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた音がした。
なんだ、やはり誰もいないじゃないか。メーターの異常は、漏電か何かの故障だろう。あの回転速度は異常だったが、機械なら壊れることもある。
どっと疲れが出た。
肩の力が抜け、懐中電灯を持つ手が下がる。
私は大きく溜息をつき、ポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭った。
馬鹿みたいだ。一人で大声を上げて、幽霊屋敷の探検ごっこなんて。
帰ろう。
報告書には「異常なし、メーター故障の疑いあり」と書けばいい。あとは電気工事の手配をして、私の仕事は終わりだ。

踵を返し、玄関へ向かおうとした。
その時だった。

カタッ。

背後で、硬質で小さな音がした。
心臓が早鐘を打つ。
音は、和室の中から聞こえた。
だが、和室には私以外誰もいないはずだ。
いや、一箇所だけ。
まだ確認していない場所がある。

私は恐る恐る振り返った。
懐中電灯の光が、震えながらその場所を照らす。
和室の東側の壁。
一間幅の、押し入れ。
上段と下段に分かれた、その襖が、ぴっちりと閉ざされている。
いや、違う。
ほんの数ミリ。
本当に、紙一枚差し込めるかどうかという隙間が、右側の襖に空いている。
そこから、暗闇が漏れ出している。
あの音は、内側から襖が揺れた音だ。
風?いや、窓は閉まっている。
ネズミ?それにしては音が重かった。

喉が渇いて張り付く。
足が竦む。
だが、確認しなければならない。それが仕事だ。いや、ここで確認せずに背中を見せて逃げ出したら、背後から何かが飛びかかってくるのではないかという妄想が、私をその場に釘付けにした。
今の私は、逃げるよりも、正体を見極めることの方に「安全」を感じていたのだ。
私は息を止め、足音を殺して押し入れに近づいた。
襖の取っ手に手を掛ける。
指先が冷たい。
中の空気を感じ取るように、耳を澄ます。
聞こえる。
シュッ、シュッ、という、擦れるような微かな音。
衣擦れだ。
中に、いる。

1、2、3。

心の中でカウントを刻み、私は全身のバネを使って、右側の襖を真横に弾き飛ばした。
パーン!
乾いた音が室内に炸裂する。
同時に、私は右手に握りしめた懐中電灯の光束を、闇の箱の中へと突き刺した。

「うわあああああああッ!」

叫んでいた。
威嚇のためではない。恐怖と、あまりにも異様な光景に対する、生理的な拒絶の叫びだった。
そこに、いたのだ。
押し入れの下段。
本来なら布団や衣装ケースが収まるべき狭い空間に、初老の男が、小さく折り畳まるようにして座っていた。
灰色のスウェット上下。薄くなった頭髪。無精髭に覆われた頬。
男は膝を抱え、所謂「体育座り」の姿勢で、背中を丸めて固まっていた。
その姿は人間というより、押し入れに捨てられた等身大の不気味な人形のように見えた。だが、その目は白目を剥くほどに見開かれ、一点を凝視している。

「ヒッ、ヒイイイイイイッ!」

私の悲鳴に呼応するように、男もまた、裏返った奇怪な声を上げた。
男の身体がビクリと跳ね上がり、抱えた膝がガタガタと震える。
その瞬間、私の中の恐怖の質が変わった。
幽霊ではない。
生身の人間だ。
生温かい体温と、酸っぱい汗の臭いを発散させる、紛れもない他者だ。

二人の大人の男が、薄暗い部屋で向かい合い、絶叫を上げている。
その滑稽さと異常さが、私の混乱した脳味噌を冷水のように覚醒させた。
私は肩で息をしながら、懐中電灯を構え直した。光の円が、小刻みに揺れながら男の顔を捉え続ける。
男は眩しそうに目を細めたが、逃げ出す様子も、襲いかかってくる気配もない。ただ、怯えた子供のように、さらに小さく身を縮こまらせただけだった。

「あんた……!」
声が震えたが、私は無理やり腹に力を込めた。
「ここが空室だってこと、分かってるよな?不法侵入だぞ!」
私の言葉が意味を成しているのか不安だったが、男はゆっくりと、何度も頷いた。その動作は従順すぎた。まるで、見つかることを予期していたかのように、あるいは、誰かに叱られるのを待っていたかのように。

私はポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で一一〇番をタップした。
通話ボタンを押すその間も、視線だけは決して男から外さなかった。もし彼が飛びかかってきたら、この重たいマグライトで殴りつけるしかない。そんな暴力的なシミュレーションが脳内を駆け巡る。
だが、男は石のように動かなかった。
警察に繋がるまでの数秒間、部屋には再び、雨音だけが戻ってきた。
パラパラ、パラパラ。
その単調なリズムの中で、私は奇妙な違和感を覚えていた。
男は、なぜ「下段」にいたのか。
普通、隠れるなら上段ではないか?あるいは、私が入ってきた気配を察して窓から逃げなかったのはなぜだ?
それに、この男の視線。
私と目が合った瞬間、彼は悲鳴を上げた。だが、その後はずっと、私の顔ではなく、私の「背後」のあたりをチラチラと気にしているように見える。
いや、考えすぎだ。不審者の心理など、理解できるはずもない。

十分後、二人の警察官が到着した。
サイレンの音は鳴らさずに来たようだが、無線機のノイズと、濡れた制服の重たい足音が、この部屋の停滞した空気を一気に現実へと引き戻してくれた。
「管理会社の方ですね?ご苦労様です」
若い巡査が私に声をかけ、年配の巡査部長らしき男が、押し入れの男に近づく。
「おい、立てるか?話を聞かせてもらおうか」
男は抵抗することなく、ふらふらと立ち上がった。
その時初めて気づいたが、男は靴を履いていなかった。靴下だけの足裏は真っ黒に汚れている。一体どこから入り込み、どれだけの期間、この部屋に潜んでいたのか。

男が連行されていく背中を見送りながら、私はようやく安堵の息を吐き出した。
膝の力が抜け、その場に座り込みそうになるのを堪える。
終わった。
ただの浮浪者の不法侵入事件だ。
メーターの異常回転も、彼がこの部屋のコンセントを使って、何か——たとえば電気ポットやヒーターなどを——過剰に使っていたせいだろう。隠している間に片付けたのかもしれないが、もうどうでもいい。
私は警察官と現場検証の立ち会いを済ませ、簡単な調書に応じた。
「後日、署の方で詳しい事情聴取があるかもしれませんので、その時はご協力をお願いします」
「ええ、構いません。……あ、そうだ」
私は帰り際の巡査部長を呼び止めた。
「あの男、何か盗んだり、壊したりはしていませんでしたか?部屋の中に私物は何もなかったようですが」
巡査部長は眉をひそめ、声を潜めた。

「ああ、それなんですがね」
彼は私の顔を覗き込むようにして言った。
「貴方、運が良かったですよ」
「え?」
「あの男、刃渡り二十センチの刺身包丁を持っていました。懐に隠して、新聞紙でぐるぐる巻きにしてね」
背筋が凍った。
あの時、押し入れを開けた瞬間。もし彼が逆上していたら。もし私が悲鳴を上げず、不用意に手を伸ばしていたら。
「取調室で少し話を聞きましたが、男はずっとその包丁の柄を握りしめていたそうです。貴方が入ってきた時も、ずっと」
「じゃあ、なんで……」
「貴方の悲鳴に驚いて、とっさに手を離してしまったと言ってました。お互い、びっくりしたのが幸いしたんでしょうな」
巡査部長は「ははは」と乾いた笑いを残し、パトカーへと戻っていった。

私は一人、雨の降り続く路上に残された。
助かった。
本当に、ただ運が良かっただけなのだ。
自分の情けない悲鳴が、命を救った。
そう自分に言い聞かせ、私は「コーポ・サツキ」を後にした。
二〇三号室の窓は、今は暗く沈黙している。
もう、あの部屋には誰もいない。
明日、電気工事の業者を手配して、メーターを点検させれば全て終わりだ。

そのはずだった。

翌日、私は警察署からの電話で叩き起こされた。
昨日の男の供述について、確認したいことがあるという。
私は重い頭を抱えながら受話器を耳に当てた。
「……はい、はい。それで、彼はなんと?」
電話の向こうの刑事の声は、どこか困惑しているように聞こえた。
「ええ、住居侵入の事実は認めています。ただ、動機について奇妙なことを口走っていましてね」
「奇妙なこと?」
「彼は、ただ寝泊まりしたかったわけじゃないと言うんです。雨風を凌ぐだけなら、もっとマシな場所がある、と」
「じゃあ、何のためにあそこに?」
刑事が一呼吸置く気配がした。
「『あそこじゃなきゃ駄目だった』と言うんです。それと、メーターの件ですが、貴方、部屋の中で何か暖房器具のようなものは見つけましたか?」
「いいえ、何もありませんでした。空っぽでしたよ」
「そうですよね。男の所持品にも、電気を使うようなものは一切なかったんです。携帯電話すら持っていなかった」

嫌な予感が、胃の奥から這い上がってくる。
電気を使っていない?
では、あの異常なメーターの回転は何だったのか。
「それから、もう一つ」
刑事の声が低くなる。
「男が持っていた包丁ですがね。あれ、貴方を襲うためのものじゃなかったみたいなんですよ」
「どういうことですか?」
「『刃先を外に向けて構えていたんじゃない』と。男はずっと、刃先を自分の喉元に向けて握りしめていたそうです」
「……自殺志願者だったと?」
「いえ、違います。『怖かったからだ』と繰り返しています。『あれがないと、入ってこられるから』と」

電話を切った後も、刑事の言葉が耳の奥で粘りついて離れなかった。

『入ってこられる』とは、どういう意味だ?
男は警察署という安全圏に保護された。だが、彼がそこまでして拒もうとした「何か」は、まだあの二〇三号室に残されているのではないか。
その日の夕方、私はどうしても自分の目で確かめなければ気が済まなくなり、再び「コーポ・サツキ」へと向かった。
雨は小止みになっていたが、空気は鉛のように重く、湿度はむしろ増しているように感じられた。

アパートの階段を上り、二〇三号室の前に立つ。
パイプスペースの扉を開ける。
……回っている。
昨日の今日だ。まだ電気の契約は切れていない。円盤は、相変わらず狂ったような速度で回転を続けていた。
やはり、おかしい。
室内には何もないはずだ。照明一つ、コンセントに挿さったプラグ一つない。
私は鍵を開け、部屋に入った。
ブレーカーを落とす。これで全て止まるはずだ。
玄関の上部にある配電盤の蓋を開け、アンペアブレーカーのスイッチを「切」にする。
バチン、という硬質な音が、無人の部屋に響いた。

私はサンダル履きのまま外に出て、再びパイプスペースを確認した。
心臓が早鐘を打つ。
円盤は、回っていた。
速度は緩むどころか、先ほどよりも増しているようにさえ見えた。
あり得ない。
メインのブレーカーを落としたのだ。電気が部屋に流れる回路は遮断されている。それなのに、なぜメーターが動く?
計器の故障か?盗電か?
いや、違う。
私はふと、メーターの円盤の動きを凝視した。
右回り。通常は右回りだ。
だが、今の回転は、どう見ても——左に回っていないか?
逆回転。
電力が消費されているのではなく、何かが「逆流」している?
あるいは、この部屋そのものが、巨大な発電機のように何かを送り出しているとでも言うのか?

その時、部屋の奥から音がした。
カタッ。
昨日と同じ、あの音だ。
和室の押し入れ。
全身の毛穴が収縮するのを感じた。男は警察にいる。誰もいないはずだ。
逃げなければ。
本能が警鐘を乱打している。だが、足は泥沼に嵌ったように動かない。
私は引き寄せられるように、薄暗い廊下を歩き出した。
部屋の空気変質していた。
昨日のような「乾いた電気の匂い」ではない。もっと生臭い、濡れた獣のような臭気が充満している。
和室に入ると、押し入れの襖は、昨日私が開け放ったままの状態だった。
その下段。
男が座っていた、その場所に。
黒い、染みのようなものが見えた。

近づいて目を凝らす。
染みではない。
穴だ。
ベニヤ板の床の一部が腐り落ち、床下の闇が覗いている……のではない。
その黒さは、物理的な穴の暗さではなかった。光を一切反射しない、ねっとりとした漆黒の空間が、そこにぽっかりと口を開けている。
そして、その穴から、微かな風が吹き上げている。
電気の匂い。オゾンの匂い。
メーターが逆回転している理由が、直感として脳に突き刺さった。
ここは出口ではない。入り口だ。
この穴から「何か」が溢れ出し、電気配線を逆流して、外の世界へ行こうとしている。
あの男は、ここに座り込んでいたのではない。
蓋をしていたのだ。
自分の肉体を重石にして、この穴を塞いでいたのだ。
包丁を喉元に突きつけていたのは、恐怖からではない。
もし意識を失ったり、乗っ取られたりしそうになったら、即座に自決して「生きた器」として使われるのを防ぐためだ。
彼は、たった一人で、このアパートの、いや、この街の結界を守っていた人柱だったのかもしれない。

ヒュゥゥゥ……。
穴からの風切り音が強くなる。
黒い闇が、液体のように盛り上がり始めた。
まずい。
男がいなくなった今、ここを塞ぐものは何もない。
私は後ずさりをした。
逃げよう。警察に任せればいい。解体業者に任せればいい。私には関係ない。
踵を返し、玄関へと走る。
背後で、凄まじい音がした。
バチバチバチッ!
空気が爆ぜる音。
振り返らない。振り返ったら終わりだ。
私はアパートを飛び出し、車に飛び乗った。

自宅までの道のりをどう運転したか、記憶が定かではない。
気づけば、自宅マンションのリビングで、荒い息を吐きながらソファに崩れ落ちていた。
手足が冷たい。指先が痺れている。
恐怖は去っていない。むしろ、身体の芯に冷たい核として居座っている。
酒でも飲んで忘れよう。
キッチンへ向かおうと立ち上がった時、違和感に気づいた。
部屋が、明るすぎる。
照明のスイッチは入れていない。
窓の外はもう夜だ。
なのに、テレビの待機ランプが、異常な光量で赤く輝いている。
Wi-FiルーターのLEDが、点滅ではなく、直視できないほどの青い光を放ち続けている。
冷蔵庫が、唸りを上げている。
ブウウウウウウウウウ。

嫌な汗が背中を伝う。
まさか。
私は玄関に走り、扉を開けて廊下のメーターボックスを確認した。
私の部屋の電力メーター。
その円盤が、見たこともない速度で、左に回転していた。

ついてきた。
いや、違う。
あの穴から溢れた「電流」は、配線を伝って拡散したのではない。
最も親和性の高い、あの場所に立ち入った「私」という導体を伝って、移動してきたのだ。

部屋の奥で、バチン、と音がした。
電球が切れる音ではない。空間が弾ける音だ。
リビングのクローゼット。
そこから、あの匂いが漂ってくる。
オゾンの匂い。

私はキッチンへ走り、引き出しを開けた。
震える手で、文化包丁を握りしめる。
逃げ場はない。
ここから出れば、また別の場所へ移るだけだ。
あるいは、私の家族へ。友人へ。

私はリビングへと戻り、クローゼットの前へと歩み寄った。
扉を開ける。
中には私のコートやスーツが掛かっているが、床板の中央に、あの「黒い染み」が生まれ始めていた。
私は服を掻き分け、その中へと潜り込む。
膝を抱え、染みの上に尻を据える。
ひやりとした感触が、臀部から背骨を駆け上がる。
包丁の切っ先を、自分の喉元へと向ける。
手が震えて、刃先が皮膚を浅く傷つける。痛みが、恐怖をわずかに和らげてくれる。

ああ、そうか。
あの男も、最初は「管理会社の人」だったのかもしれない。
私と同じように、前の住人が逃げ出した後始末に来て、そして交代したのだ。

円盤の回る音が、壁越しに聞こえる気がする。
シュッ、シュッ、シュッ。
私は目を閉じ、膝を強く抱きしめた。
次の誰かが、この扉を開けてくれるまで。
私はここで、じっとしていなければならない。

(了)

[出典:715 :本当にあった怖い名無し:2019/09/30(月) 14:45:02.51 ID:241MUtrr0.net]

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