都会の喧騒を離れ、鬱蒼とした木々に囲まれた山道に足を踏み入れるとき、人は無意識のうちに境界線を跨いでいるのだという。そこは人の理(ことわり)が通用しない場所。神域か、あるいは魔境か。
私の手元には、山に魅入られた、あるいは山に拒絶された人々から集めた数多の記録がある。その中から、特に印象深い四つの話を記しておきたい。
柴刈りの代償
これは、ある地方の旧家出身の老婦人から聞いた話である。
彼女がまだ幼かった頃、家にガスや電気といった文明の利器が十分に普及しておらず、煮炊きや暖を取るためには、昔話のように山へ柴刈りに行く必要があった時代のことだ。
ある秋晴れの日、彼女の祖父がいつものように背負子を背負って山へ入っていった。
祖父は山の達人であり、どの木が良い薪になるか、どの獣道がどこへ通じているかを掌のように熟知していた。昼過ぎには戻るだろう。家族の誰もがそう思っていた。
しかし、太陽が中天に差し掛かった頃、勝手口の戸が乱暴に叩かれた。
「おい! 塩だ! 塩を持ってこい!」
普段は温厚で物静かな祖父の、聞いたこともないような切迫した怒鳴り声だった。
台所にいた母親(祖父にとっては義理の娘にあたる)が驚いて外へ出ると、そこには青ざめた顔でガタガタと震える祖父が立っていた。背負子は空だった。
「家に入れるな! ここで撒け! 頭から全部だ!」
祖父は庭先で仁王立ちになりながら叫び続けた。母親は言われるがままに塩壺を掴み、祖父の頭から全身にかけて真っ白になるほど塩を浴びせた。それでも祖父の震えは止まらない。
「酒だ、一升瓶をそのまま寄越せ!」
清めの塩にまみれたまま、祖父は渡された一升瓶をひったくり、家の中には一歩も入らぬまま踵を返した。
「俺は神社へ行く。今夜は堂守をする」
そう言い残し、祖父は逃げるように走り去っていった。
翌日、ようやく帰宅した祖父が、落ち着きを取り戻してからぽつりぽつりと語ったところによると、事の顛末はこうだった。
山に着いた祖父は、いつもの場所で昼飯の握り飯が入った包みを、目印となる太い枝に掛けた。それから周囲の柴を刈り始めた。ある程度の量が集まるたびに、その木の根元へ運んで積み上げる。単調だが慣れた作業だった。
一度、二度、三度。
刈った柴を抱えて木の元へ戻った時、祖父は違和感を覚えた。
枝に掛けておいたはずの弁当包みがない。
風で落ちたのかと視線を下げた祖父の目に飛び込んできたのは、彼が集めた柴の上に鎮座する「何か」だった。
それは、食べ物だった。
だが、握り飯ではない。木の実や、生の何かの肉、そして泥のようなものが奇妙に練り合わされ、葉の上に丁寧に盛り付けられていた。
明らかに、誰かが祖父の弁当と「交換」したのだ。
周囲には人の気配など微塵もない。鳥の声すら止んでいる。
祖父は直感した。これは山の主か、あるいはあやかしの類による「物々交換」だと。そして、それを受け取ってしまえば、二度と里へは戻れない契約が成立してしまうことも。
祖父は柴も道具もすべて放り出し、転がるように山を駆け下りたのだという。
「山は里とは違う。ほんの少しの異変でも、そこには人知を超えた意味がある。だからすぐに降りなきゃならんのだ」
老婦人はそう締めくくった。祖父が何事もなく天寿を全うできたのは、あの時、一瞬の迷いもなく逃げ出し、神域で一夜を明かして穢れを落としたからに他ならないのだろう。
山に棲む「何か」は、今も誰かの弁当を待ち続けているのかもしれませんよ、と彼女は笑ったが、その目は笑っていなかった。
沈黙の行進
次にご紹介するのは、ある教育関係者が語った、集団心理では片付けられない奇妙な体験談である。
十数年前の夏、彼はボーイスカウトのような青少年団体の引率として、総勢七十名ほどのキャンプに参加していた。
子供たちは小学四年生から中学三年生までが五十名。それを支える高校生以上のスタッフが二十名。
キャンプの目玉行事といえば、やはり夜の肝試しである。
鬱蒼とした森の中を通る一本道。その途中を左に折れれば国道へ出る、というシンプルなルートが設定された。
子供たちを十人ずつの五つの班に分け、それぞれの班には大人二名が引率としてつく。
残りの大人たちは森の中に潜み、脅かし役を務めることになっていた。
脅かすといっても、お化けの仮装をするわけではない。木々をカサカサと鳴らしたり、小石を投げたり、暗闇から含み笑いを漏らしたりといった、心理的な恐怖を煽る演出である。
語り手である彼は、ある女子スタッフと共に、コース中腹の森の中に隠れていた。
「来た、第一班だ」
懐中電灯の明かりが見え、子供たちの悲鳴が聞こえる。彼らが小枝を折る音を立てると、子供たちはパニックになりながら通り過ぎていく。
予定通り、第一班から第五班まで、すべてを驚かし終えた。
「終わったな。戻ろうか」
彼と女子スタッフは、役目を終えた他の脅かし役たちと合流し、談笑しながらゴール地点である国道沿いの集合場所へと向かった。
しかし、集合場所の空気は妙に張り詰めていた。
国道側の茂みに隠れていたスタッフたちが、まだ身を潜めたままなのだ。
「おい、もう終わったぞ。何してるんだ?」
彼が声をかけると、茂みの中のスタッフは焦ったように口元に指を当てた。
「しっ! まだだ、まだ全部来てない!」
彼らは顔を見合わせた。
「何言ってるんだ? 俺たちは森の中で五つの班すべてを確認したぞ」
「いや、こっちにはまだ四つの班しか来てないんだ」
その時だった。
背後の森から、ザッ、ザッ、ザッ、と整然とした足音が近づいてきた。
「ああ、やっと来たか」
最後尾の第五班が、引率の大人と共に到着した。これで全員が揃ったことになる。
点呼を取り、全員の無事を確認して安堵する一同。しかし、脅かし役たちの間だけで、ある齟齬(そご)が生じていた。
森の中にいた彼と女子スタッフは、確かに「奇妙な班」を目撃していたのだ。
それは第三班と第四班の間に現れた集団だった。
彼らがどんなに音を立てても、石を投げても、一切の反応を示さなかった班があったのだ。
悲鳴を上げることもなく、私語を交わすこともなく、全員が深くうつむき、まるで軍隊のようにザッ、ザッ、ザッ、と足並みを揃えて歩く十数人の影。引率の大人の姿も見えなかったが、暗がりゆえに見落としたのだと思っていた。
「あいつら、ノリが悪かったよな」
彼と女子スタッフはそう笑い合っていたのだ。
だが、国道側にいたスタッフたちは断言した。
「そんな班は通っていない。絶対に、四つの班しか通らなかった」
もし、彼の見た「反応のない班」が存在したのだとすれば。
そして、国道側のスタッフが正しく、その班が国道へ出てこなかったのだとすれば。
その集団は、ルートを左に曲がることなく、森の奥へと続く真っ直ぐな獣道を、今もどこまでも歩き続けていることになる。
翌年から、そのキャンプでの肝試しは中止になったという。
あの夜、彼らが驚かそうとしていたのは、一体何者だったのだろうか。
白い衝動
山における怪異の中で最も恐ろしいのは、幽霊や妖怪の類ではない。
信頼していた仲間が、あるいは自分自身が、突然「理解不能な何か」に変貌してしまうことだ。
これは雪山登山を趣味としていた男性が、亡くなる数年前に震える手で書き残した手記の内容である。
厳冬期、彼は同僚と二人で雪山の下山ルートを歩いていた。
天候が急変し、視界は真っ白なブリザードに覆われていた。深い新雪が行く手を阻み、先頭を交代しながらラッセル(雪をかき分けて道を作ること)を繰り返す過酷な行軍だった。
その時、先頭を行く同僚の様子がおかしいことに彼は気づいた。
もうかなりの時間、雪をかき分け続けているはずなのに、交代を要求してこない。それどころか、ペースが落ちるどころか徐々に上がっている。
「おい、そろそろ代わろう! 無理をするな!」
背後から声をかけるが、同僚は無視して突き進む。
風の音にかき消されているのかと思い、さらに大声を張り上げたが、反応はない。
そればかりか、同僚の足取りは奇妙に蛇行し始めた。
まるで子供がスキップをするような、あるいは何かに操られているような、不自然なリズム。
彼らが歩いているのは尾根沿いの細いルートだ。一歩踏み外せば滑落する危険がある。
「おい! 待て!」
焦燥に駆られた彼は、必死に足を動かして同僚に追いつき、その肩を乱暴に掴んで引き戻した。
「何やってんだ! 危ないだろう!」
その瞬間だった。
同僚がたった今、足を踏み出そうとしていた場所の雪が、音もなく崩落した。
そこは道ではなかった。
強風によって雪が庇(ひさし)のように張り出した「雪庇(せっぴ)」だったのだ。もし彼が引き戻していなければ、同僚は雪と共に数百メートル下の谷底へ消えていただろう。
彼は腰を抜かした同僚を雪面に引き倒し、怒鳴りつけた。
「聞こえてただろう! 何で止まらなかった!」
同僚は虚ろな目で彼を見上げ、こう答えたという。
「……聞こえてたよ。お前の声はずっと聞こえてた」
「だったら何で!」
「でも、なんだか急に、すごく楽しくなってきたんだ。体中の力がみなぎってきて、足を止めたくなかった。このままどこまでも行けるような気がして……あの白いふかふかした場所に飛び込んだら、絶対に気持ちいいって、そう思ったら止まらなくて」
同僚の顔には、死の淵にいた人間とは思えない、恍惚とした笑みが張り付いていた。
それは本当に同僚の意思だったのだろうか。極限状態が見せた幻覚か、それとも雪山に潜む魔が彼の手を引いていたのか。
その後、二人は一言も口を利かず、互いにロープで身体を繋ぎ合い、慎重に下山したという。
あの時の同僚の笑顔が、今でも夢に出てくると手記には記されていた。
木霊の守り
最後に、山がもたらすのは恐怖だけではないという話をしよう。
これはある登山家が、十六年前に南アルプスの北岳で体験した、生涯忘れられない出来事である。
当時、大学生だった彼は、登山部の仲間と共に北岳に挑んでいた。
標高日本第二位を誇るその山は、夏とはいえ夜になれば冬のような寒さに包まれる。
一日目の夜、彼らは白根御池小屋の近くにテントを張った。
満点の星空の下、彼は隣のテントのグループに目を奪われた。
全身を鮮やかなオレンジ色の登山ウェアで統一した男たち。ヘルメットまでオレンジ色で揃え、その姿は熟練のアルピニストとしての風格を漂わせていた。
初心者の彼が憧れの眼差しで見つめていると、その中の一人がマグカップを片手に近づいてきた。
「こんばんは。いい夜だね」
日焼けした精悍な顔立ちの男だった。
「はい、星がすごくて……。僕、まだ初心者なんで、何もかもに感動してます」
「そうか、初心者か。北岳はいいぞ。何度でも登りたくなる」
男は目を細めて夜空を見上げ、それから首にかけていたものを外した。
「未来ある初心者に、これをあげよう」
差し出されたのは、奇妙な手作りのお守りだった。
木を削り出して磨き上げた小さな玉。中心に穴が空けられ、使い古された木綿の紐が通してある。
「これは『木霊』といってね、俺が削ったんだ。俺のことを何度も危険から救ってくれた、とっておきの守り神だよ」
「えっ、そんな大切なもの、いただけません」
「いいんだよ。山を好きになってくれた後輩へのプレゼントだ」
男は強引に彼の手にお守りを握らせ、白い歯を見せて笑った。「安全祈願と魔除けだな。大切にしろよ」
翌日、彼ら登山部が標高を上げ、肩の小屋に到着した頃、周囲が騒然とし始めた。
上空を県警のヘリコプターが旋回し、山小屋の無線からは緊迫した交信音が飛び交っていた。
「滑落事故発生。バットレス下部。複数名」
バットレスとは、北岳の東面にそびえ立つ巨大な岩壁のことだ。
漏れ聞こえる情報に、彼は血の気が引くのを感じた。
滑落したのは、全身オレンジ色のウェアを着たパーティーだった。
その夜、テントの中で彼は夢を見た。
昨夜のあの男が、枕元に立っている。
オレンジ色のウェアは泥と血に汚れ、体は不自然にねじれていたが、顔だけはあの時のまま、穏やかに笑っていた。
『兄ちゃん、その木霊のお守り、大切にしてくれよ。俺の代わりにお前を守ってくれるはずだ。……バトンタッチだな。さようなら』
彼は飛び起きた。テントの外では、風が慟哭のように吹き荒れていた。
翌朝、彼らは無事に登頂を果たし、事故の現場を避けるようにして下山した。
彼はずっと考えている。
もし、あの男がお守りを手放さなければ、バットレスから落ちることはなかったのではないか。
あの男は、自分の死期を悟って、運命をこの木霊に託して若者に譲ったのではないか。
あるいは、山が要求した「生贄」の身代わりとして、自らを選んだのだろうか。
十六年が経った今でも、その木霊のお守りは彼の家の仏壇に祀られている。
お盆の時期になると、彼は御先祖様に手を合わせながら、名前も知らないあのオレンジ色の登山家の冥福を祈り続けている。
山には、私たちが暮らす平地とは異なる時間が流れている。
そこにあるのは、豊かな恵みと、理不尽な死と、人知を超えた何かだ。
朽ちかけた祠を直して神に感謝されることもあれば、弁当を奪われて魂を抜かれそうになることもある。
もしあなたが山へ行く機会があるのなら、心に留めておいてほしい。
一歩足を踏み入れたその場所は、すでに境界線の向こう側なのだと。
(了)