田んぼの泥が温まりきらずに冷気をまとう頃、空気の底だけがじわり湿る。
あれは中学二年の夏休みの終わりで、昼間に遊び疲れた身体のまま、息を合わせるように夜へ滑り込んだ夜だった。
月は細く、森の奥の池へ向かう山道は、足元だけが白く浮いていた。先頭を歩く友人がスニーカーを擦るたび、乾いた砂粒の音が一定の間隔で耳に触れた。胸の内側では、期待だか不安だか曖昧な熱が一定のリズムで脈を打つ。
噂は三つ。
ホモ屋敷と呼ばれた水車小屋、森の散歩道にある防空壕、そして池の中央の鳥居。
三つ目に至る頃には、もう半ばどうでもよくなっていて、ただ「全部確かめた」という達成感だけを欲しがっていた。
池に近づくと、匂いが変わった。水の皮膚が朝に戻りきれずに残した冷たさが、鼻の奥にひやり貼りつく。鳥居だけが黒々と立ち、湖面に反転した影がわずかに揺れ、呼吸のたびに自分の肩が緊張で狭くなる。
「くぐるには……入るしかないよな」
誰ともなく呟いた声が、夜気の膜に吸われていった。
その時点で、俺の足裏はすでに汗ばんでいた。湿った草を踏む感触がぺたりして、皮膚の縁がいやに敏感になる。
じゃんけんは三度目で決まった。
俺の掌に残った負けの熱気が、しばらく消えなかった。息を吐くたび、喉の奥がひゅう、と狭まる。友人たちが焚き付けるように笑っているのに、その笑いの奥に、誰も「自分じゃなくて良かった」という安堵を隠しているのが伝わってきた。
パンツ一枚になった時、夜気が脚に絡みついてきた。皮膚の表面がぞわり逆立つ。
飛び込んだ瞬間、思ったより水が冷たくて、肺の奥が急に縮んだ。深さは想像以上で、足はどこにも触れない。水の重さが全身をねっとり包み込み、俺の呼吸を奪おうと喉にまとわりつく。鳥居だけが、ひっそりと上から俺を眺めていた。
必死で手を掻くたび、水が耳の中でざらつく音を立てる。指先がこわばり、肩が張りつめて、皮膚が自分のものじゃないみたいになる。
友人たちの声が遠くで跳ねた。「おい、やばいって!」
その声の輪郭が水に潰れて、意味だけが遅れて届く。
鳥居に触れた瞬間、木の表面だけが異様に温かかった。
その温度が、夜気の冷たさと逆方向に走って、腕の骨の奥までしみ込んでくる。
息が荒れすぎて、視界が細い線みたいに揺れ始めた頃――
「大丈夫かい。ほら、手を伸ばしてごらん」
水面の裏側から、声が滲んだ。
最初は誰が言っているのか分からなかった。耳に届くより先に、背中の産毛がざわり立った。
鳥居の上から、ひとつの影がこちらを覗き込み、まるで水面に書き込むみたいに手を差し出してくる。皺の刻まれた指先が、月光の欠片より白く浮いた。
俺はそれを「助けてくれるもの」だと思い込み、手を伸ばした。
その瞬間、肩の肉だけが別方向へ引かれたように痛み、胸の奥がきゅ、と縮んだ。
肩を引かれた痛みがじわじわ滲むうち、周囲の音が妙に静まった。
友人たちの叫びも、夜の虫の声も、遠くへ押しやられたみたいに薄くなる。
代わりに、水の内側でだけ響くような“こもった呼気”が、俺の耳裏をさする。
鳥居にしがみつく指先は震えて、木の表面のざらつきだけが現実の境界みたいに残った。
差し伸べられた手は、水と光の境界で白くぼやけていた。
輪郭はあるのに、骨の位置が読めない。
まるで何層もの薄皮でできた手袋が、水の震えで少しずつ剥がれているような感じがして、
それなのに俺の胸は、どうしてか安堵に近い緩みを覚えた。
「助かる」と思った感情だけが、不自然に膨らんだ。
距離は腕一本分ほどしかないのに、その手が近づく速度が一定ではなかった。
瞬きするたび、少し遠のき、また急に近づき、自分が水中で揺れているせいなのか、
それとも相手が揺れているのか、自分の体の位置が曖昧になる。
鳥居にしがみつく反対の手が痺れ、肘がゆっくりと冷えていった。
「ほら、掴めるだろう」
声だけが、俺の耳の後ろ側から直接吹き込まれたみたいに響いた。
水面の上から喋っているはずなのに、距離が合わない。
その瞬間、肺の奥がぎゅっと縮み、知らず肩が跳ねた。
俺は息を呑み、手を伸ばした。
その時、差し出された“手の根元”――袖口にあたる部分が、月明かりを吸わず、
布の質感も皮膚の質感も持たない“何か”の影だけでできていることに気づいた。
その部分は波の上下に全く反応しなかった。
まるで、水とは別の振動の中に存在しているみたいに。
ぞっとして手を引こうとしたが、腕が遅れた。
肩だけが先に反応して、肘から先が言うことを聞かない。
皮膚の下で、誰かが手首をつまんで確かめているような、
細い指先の感触がじんわり走った。
「……離すなよ」
声が、今度は喉の奥で直接鳴った。
誰かに喉内側から言葉を押し込まれたようで、反射的に咳き込み、
鳥居の縁をつかんでいた指先が滑った。
胸の奥に“押し込まれる感覚”が広がり、
鼓動がふいに乱れ、頭の後ろがじん、と締めつけられる。
その時だった。
池の外から、鈍い音がひとつ跳ねた。
何かが水面近くの木にぶつかった鈍音で、
直後に二つ、三つと続けざまに軽い衝撃が飛んだ。
ひゅ、と頬の横で空気が切れた。
石だった。
その石が、俺の肩より少し上をかすめ、
水面を叩いて沈んだ。
表面張力が破れた音だけが、やけに生々しく鼓膜に触れた。
「まずい!」
怒鳴り声が夜の膜を破った。
それと同時に、俺のすぐ目の前にいた“爺さん”の手が、
水に滲んだ絵みたいにじわり薄れていった。
白い指先が、水の揺れとは逆向きに震え、
鳥居にしがみつく俺の腕だけが、異様に熱を帯びた。
次の瞬間――
俺の身体が、水の底へ引き込まれるように沈み始めた。
自分が沈んでいるのに、水の抵抗を感じなかった。
胸の内側だけがひどく冷え、視界が細長い線に変わり、
その線の向こうで、誰かがこちらを覗き込んでいる影があった。
それが“爺さん”なのか、
鳥居の影そのものなのか分からなかった。
身体が沈むのに、水の重さだけがどこかへ置き去りになったようだった。
胸の奥に、ひゅう、と細い風が通り、肺の輪郭が曖昧になる。
耳の近くで、誰かの吐息が水中に滞りなく流れ込んできて、
その吐息だけが生きた温度を持っていた。
暗がりの底で、何かが俺の手首をなぞった。
皮膚の表面は冷たいはずなのに、触れた感触だけが妙に乾いていて、
指の形は細いのに、節がひとつ多いような“屈曲”があった。
鳥居の影に溶けたその手は、まるで俺の腕の内側を確かめるように、
肘の裏をゆっくりと撫で上げた。
その時、頭の中にひとつだけ言葉が落ちてきた。
――「離れるな」
声とも思考ともつかないそれが、胸骨の裏に直接焼きつくみたいに響いた。
俺は水中で叫んだつもりだったが、口から出たのはわずかな泡だけで、
その泡が生き物のように耳元で弾けた。
視界の端に、鳥居の脚がゆらゆら揺れた。
まるで俺の沈む速度に合わせて、鳥居の方が伸びてくるように見えた。
その歪んだ距離の感覚がひどく不安で、
俺は必死に水を掻こうとしたが、腕は別の目的へ引かれるように動かなかった。
一瞬、何かが頭上で閃いた。
直後、後頭部に衝撃が走った。
石だ。
水面近くから投げ込まれたそれが、鈍い痛みとともに視界の闇を揺らした。
次に、肩のすぐ横でもう一発。
その瞬間、俺の肩をつかんでいた“もの”が、
泡の束みたいにほどけていった。
沈められていた身体が急に軽くなり、
逆にどこにも支えがなくなったことで、肺の奥が燃えるように熱くなった。
遠くで、水を割る音。
誰かが飛び込んだ。
その音が水中にもかかわらずはっきり届き、
次の瞬間、力強い腕が俺の脇を抱えた。
その腕の体温だけが、やけに鮮明だった。
意識が途切れる最後の瞬間、
俺の視界の端で、鳥居の上に“爺さん”の影が立っていた。
輪郭は夜の湿気で表面だけ光り、
その手が、俺ではない別の方向――
助けてくれた大人の方へ伸びていた。
伸びながらも、指が何度も折り返し、長さが少しずつ変わっていた。
そこから先の記憶は断片的だ。
熱い布の感触、消毒液の匂い、部屋の薄暗さ、
そして、枕元で低く響いた声だけが鮮明に残った。
「……黙って帰りなさい。
あの池の鳥居に、二度と触れちゃいかん。
優しく見えるものが、優しいとは限らんからな」
その言葉が、妙に重く沈んだ。
あの人の顔は覚えているのに、目だけが思い出せない。
どこを見ていたのか。
いや、そもそも“見ていた”のかどうか。
三日間、家から一歩も出られなかった。
肩には、薄い痣のような跡が残っていた。
つままれた形に近いが、指の数が合わない。
鏡で見るたび、痣がほんのわずかに位置をずらしているように見え、
時間をおいてもう一度見直すと、元に戻っていた。
夏休みが終わる頃、学校へ行く道すがら、
ふと気配を感じて立ち止まった。
後ろには誰もいないのに、
肩の痣だけが、陽に焼けないまま白く残っていた。
あの時、あの手を掴んでいたら、
今ここを歩いている“俺”は、誰だったんだろう。
鳥居の影が水面に映る時、
あれは世界を分けているのではなく、
ただ“入れ替えているだけ”なのかもしれない。
俺が助けてもらったのか。
それとも――
“別の俺”があの池の底へ連れていかれたのか。
そう思うと、肩の痣がじん、と熱を持った気がした。
[出典:270 :270:2012/05/24(木) 16:48:39.30 ID:fHAXJ+lT0]