知らない番号から電話が来ると、今でも出る前に息を止めてしまう。
最初の電話は、俺の携帯にかかってきたものですらなかった。
十九のころ、俺はまだ携帯を持っていなかった。金が惜しかったわけではない。ただ、いつでも誰かに捕まる道具を持つのが嫌だった。友達からは不便だとよく言われたし、当時付き合っていた彼女にも何度か呆れられた。
その夜も、俺の部屋で彼女とだらだらテレビを見ていた。コンビニで買った菓子の袋が畳の上に転がっていて、窓の外では原付が一台、細い音を残して通り過ぎた。
彼女の携帯が鳴った。
彼女は画面を見て、知らない番号だと言った。それでも何気なく出た。
「もしもし」
最初は普通だった。けれど、すぐに彼女の顔つきが変わった。相槌が減り、こちらをちらちら見る。やがて携帯のマイクを手で押さえて、小声で言った。
「なんか、あんたに代われって」
意味が分からなかった。
俺は携帯を受け取り、耳に当てた。
「もしもし」
受話口の向こうで、若い女の声が弾んだ。
『あ、代わってくれた。コーイチ君?』
俺は黙った。
『よかった。女の人が出たから、ちょっとびっくりしちゃった』
明るい声だった。友達に電話をかけて、ようやく本人につながったという感じの声だった。
「人違いです」
そう言うと、女は少し笑った。
『またまた。声、同じだもん』
「俺はコーイチじゃないです」
『でも、昨日もその声だったよ』
昨日。俺は女と話した覚えなどなかった。
彼女が不安そうにこちらを見ていた。俺はそれ以上聞く気になれず、「間違いです」と言って切った。
彼女はすぐに発信履歴を見た。
「誰?」
「知らない。コーイチってやつと間違えてる」
彼女は首をかしげた。
その直後、また鳴った。
同じ番号だった。
今度は彼女ではなく、俺が出た。
「もしもし」
『なんで切るんですか』
女は少しむくれていた。
「だから、人違いです。この携帯も俺のじゃない。彼女のです」
『でも、教えてくれたじゃないですか』
「誰が」
『コーイチ君が』
「知らないって」
『夢で』
返す言葉が止まった。
女は急に真面目な声になった。
『昨日の夜、夢で話したんです。コーイチ君が、この番号にかけたら話せるって言ったから、起きてすぐメモしたんです』
彼女が俺の腕をつかんだ。声は聞こえていないはずなのに、何かまずいものだと分かったらしい。

俺はできるだけ低く言った。
「俺はコーイチじゃない。もうかけてこないでください」
しばらく沈黙があった。
それから女は、少し遠慮がちに言った。
『じゃあ、友達になってください』
その言い方が嫌だった。
怖いというより、すでに話が決まっていて、俺だけが知らされていないような感じだった。
「無理です」
そう言って切った。
その夜、彼女はすぐに番号を着信拒否にした。しばらくは二人でその話をした。変な女だった、夢って何だよ、たぶん適当に番号を押したんだろう。そんなふうに笑おうとした。
けれど、笑いきれなかった。
俺には携帯がない。
それなのに、女は俺に代われと言った。
一年ほど経って、俺も携帯を持った。就職のことやバイト先の都合もあり、持たないわけにはいかなくなった。
番号を知っているのは、彼女と数人の友達と家族だけだった。
そのころには、あの電話のこともほとんど忘れていた。ある休日、彼女を助手席に乗せて、夜の国道を走っていた。ラジオから古い曲が流れていて、コンビニの看板だけがやけに白く光っていた。
携帯が鳴った。
知らない番号だった。
何も考えずに出た。
「もしもし」
受話口の向こうで、女が言った。
『コーイチ君?』
ハンドルを握る手が固まった。
俺は助手席の彼女を見た。彼女も、俺の顔を見ただけで分かったらしい。口だけで「コーイチ?」と動かした。
「違います」
俺はそれだけ言って切った。
すぐに、また鳴った。
無視した。鳴り止んだ。数秒してまた鳴った。三度目で、俺は路肩に車を寄せた。
「……もしもし」
『やっと出た』
女の声はうれしそうだった。
「どうやってこの番号を知った」
『コーイチ君が教えてくれました』
「また夢か」
『うん』
あまりに当然のように言うので、怒鳴る気力が抜けた。
『前の番号、もうつながらなくなったから。新しいのを聞いたんです』
「誰に」
『だから、コーイチ君に』
「そいつは俺じゃない」
『知ってます』
その一言で、車内が静かになった。
俺は聞き返した。
「知ってる?」
『コーイチ君は、あなたじゃないです。でも、あなたの声で話すんです』
彼女が小さく息をのんだ。
女は続けた。
『夢の中では、顔はよく見えないんです。でも声は分かるんです。だから、こっちにかけると会えると思って』
「会えない」
『電話だけでもいいです』
「無理だ」
その日はそれ以上話さず、切った。
彼女とはその後もしばらく付き合ったが、あの電話のことは互いに避けるようになった。ふざけて話せる種類のことではなくなっていた。
さらに二年が過ぎた。
彼女とは別れた。携帯会社も変えた。番号も変わった。就職が決まらず、酒屋で配達のバイトをしていた。
夕方、店の軽トラックで団地にビールケースを運んでいたとき、携帯が鳴った。仕事の客かもしれないと思い、荷台にもたれたまま出た。
『お久しぶりです』
その声を聞いた瞬間、団地の廊下を吹き抜ける風の音が消えた。
『覚えてますか』
俺は携帯を耳から離し、画面を見た。知らない番号だった。
「……何なんだよ」
女は初めて、自分の名前を言った。ミナだと名乗った。
『もうかけないつもりだったんです。でも、また教えてくれたから』
「誰が」
聞くまでもなかった。
『コーイチ君が』
俺はその場にしゃがみ込んだ。膝に力が入らなかった。
「何で俺なんだ」
『分からないです』
「俺はお前を知らない」
『はい』
「コーイチも知らない」
『はい』
「だったら、なんでかけてくる」
しばらく、向こうで衣擦れのような音がした。女は受話口を握り直したらしかった。
『夢の中で、コーイチ君が言うんです。この人なら分かるって』
「何を」
『私がここにいることを』
寒気がした。
それまで俺は、女がどこかで俺の番号を調べているのだと思っていた。知り合いづてか、偶然か、何か悪質な方法で。
けれどその声は、俺を探している声ではなかった。
何かに使われている人間の声だった。
「もうかけてくるな」
『はい』
女は素直に返事をした。
『これで最後にします』
その声は泣いていなかった。怒ってもいなかった。ただ、用事が終わった人のように落ち着いていた。
『でも、もし今度、そっちからかかってきたら』
「かけない」
『出てくださいね』
そう言って、電話は切れた。
それから七年、女から電話は来ていない。
番号は何度か変えた。仕事用と私用で分けてもいる。知らない番号は基本的に出ない。必要なら留守電に残すだろうと思うことにしている。
ただ、一度だけ妙なことがあった。
深夜に、知らない番号から着信があった。画面に番号が出て、すぐに消えた。ワン切りだった。
そのあと、留守電の通知が残っていた。
再生すると、何も聞こえなかった。
無音が十秒ほど続いたあと、最後に小さく、俺の声が入っていた。
「次は、この番号でいい」
俺はそんな電話をかけていない。
それ以来、知らない番号からの着信を見るたびに、指が動かなくなる。
向こうで誰が待っているのか分からない。
ミナなのか。
コーイチなのか。
それとも、俺の声を聞かされた誰かが、今度は俺を本人だと思っているのか。
最近は、着信がない日のほうが怖い。
夢の中で誰かが、まだ番号を聞き取っている最中なのかもしれないから。
[出典:597 :本当にあった怖い名無し:2009/04/04(土) 20:43:06 ID:i2Gv4ZvD0]