あれは、まだ義母と同居していた頃のことだった。
私の妊娠が分かった日から、家の空気は目に見えない刃物のようになった。義母は毎日のように腹に向かって言った。「私は跡取りをこの手に抱きたいのよ」。その声は祝福ではなく、所有の宣言に近かった。
その場に居合わせた友人は、いつも通り穏やかに微笑んでいた。だがその日だけは違った。
「お姑さんは、お孫さんを抱くことは出来ないと思いますよ」。
柔らかい声だったのに、義母は顔色を失い、椅子を倒して外へ出ていった。理由は分からない。ただ、友人の目が一瞬だけ、私の腹ではなく、背後の仏壇を見ていたのを覚えている。
その後、夫の転勤で私たちは東京へ移った。娘が生まれても、義母に知らせなかった。夫が絶縁を選んだからだ。友人は時折訪ねてきて、娘を抱き、「よかったね」と笑った。私はあの日の言葉を何度も思い出し、尋ねたことがある。
「どうしてあんなこと言ったの」。
「当たってよかったよ」。
それだけだった。理由は言わない。占いだとも、夢だとも言わない。
娘が幼稚園に通い始めた頃、義母は私たちの住所を突き止めた。ある日、留守中に家へ入り、父の位牌を持ち去った。
「返して欲しければ孫に会わせろ」。
夫と義実家へ向かった。義母は笑っていた。
「もう捨ててきた。早く取りに行かないと大変なことになるかもね」。
その瞬間、携帯が鳴った。友人だった。
「今、義実家でしょ」。
背筋が冷えた。私は何も言っていない。
「持っていくから。絶対に手を出さないで」。
数分後、友人が現れた。腕に抱えていたのは、父の位牌だった。
「どうして……」。
義母は床に崩れ落ち、声にならない息を吐いた。
友人は義母の前にしゃがみ、静かに言った。
「不思議でしょう。どうして私がこれを持っているのか」。
答えを待たずに続ける。
「彼女のお父さんが、夢に出てきてくれたんです」。
私は息を呑んだ。だが、友人の目は私を見ていなかった。義母だけを見ていた。
「山裾の藪の中。人が入らない場所。そこに置いたでしょう」。
義母は首を横に振った。否定とも拒絶ともつかない動きだった。
「お父さんは怒っていますよ。娘を傷つけるな、と」。
その言葉に、私は安心するはずだった。だが違った。胸の奥で、何かがひっかかった。
父は生前、怒鳴る人ではなかった。誰かを脅すような言い方をする人でもなかった。
帰り際、友人は私にだけ聞こえる声で言った。
「あなたは守られている。でも、守られているってことは、見られているってことだよ」。
その意味を聞き返せなかった。
それから義母は姿を見せなくなった。親戚によれば、すっかり怯えているらしい。友人の名を出すだけで顔色が変わるという。
だが、奇妙なことが起き始めた。
夜中、仏間の扉がわずかに開く。娘が誰もいない方向に向かって「おじいちゃん、だめだよ」と小声で叱る。友人は以前より頻繁に夢の話をするようになった。「また来たよ」と。
位牌は確かに家にある。だが、手に取るたびに、微妙に重さが違う気がする。裏の傷の位置が、見慣れた場所とずれている気がする。
ある晩、夢を見た。
父が立っていた。背を向けたまま、低い声で言った。
「まだ終わっていない」。
振り向いた顔は、父の顔ではなかった。
目が覚めたとき、娘が枕元に立っていた。
「おじいちゃん、ここにいるよ」。
指差したのは、私の背後だった。
振り返らなかった。振り返れば、何かが確定してしまう気がしたからだ。
私は今も祈ることをやめられない。感謝ではなく、確認のために。
本当に守られているのは、私なのか。それとも。
位牌の前に立つたび、誰かが私の言葉を待っている気がする。父なのか、友人なのか、それとも。
娘は最近、よく笑う。
あの日、義母が抱けなかったものを、誰が抱いているのかは分からない。
夜になると、仏間の隙間から、かすかな声がする。
「まだ、抱いていない」
[出典:824 :本当にあった怖い名無し:2009/01/21(水) 16:41:24 ID:YArm0sWp0]