俺が某飲食店で働いていた頃の話だ。
全国チェーンの一角で、郊外にどっしり構える古い店舗。内装も什器も、開店当初のまま手直しされていない部分が多く、油の匂いと埃が長年しみついていた。だが意外なことに、この店は地域でトップクラスの売上を誇っていた。三世代でやってくる常連もいれば、土日は長蛇の列ができるほどで、稼働率は常に限界に近かった。
俺の担当は基本的に調理場だった。鉄板の熱気に汗をかきながら、食材を刻み、焼き、皿に並べる。だが必要に応じて接客やレジにも入る。繁忙店では誰もが万能でなければ回らないのだ。
初めて配属された日のことは今も鮮明に覚えている。厨房の床には油が層のように固着し、棚の隅には得体の知れない紙片や虫の死骸がこびりついていた。汚い、と思うより先に「ここは掃除をしなければ」と体が動いた。仕事が終わると、残って少しずつ拭き掃除をした。雑巾に黒い泥が染み出すたび、自分が何か大事な層を剥がしているような感覚があった。
不用品をまとめ、木材の柱や棚にワックスを塗り込み、表のガラスまで磨くと、少しずつ空気が軽くなる気がした。最初は訝しげに俺を見ていたバイトたちも、そのうち手を貸してくれるようになった。掃除は奇妙な共同作業であり、言葉よりも早く人と人を繋ぐ。あの時の温かさは、今となっては遠い記憶になったが。
問題は、レジ裏を片付けていたときに始まった。
壁に備え付けられた古びた棚を開けると、忘れ物箱が出てきた。白いテープに書かれた日付は三年前で止まり、中身は埃とゴミの山だった。鼻がむずむずするほどの汚れを拭き取り、箱を取り出そうとした瞬間だ。
すぐ近くにいた十年選手の女性社員が「あっ」と小さな声を漏らした。振り向くと、彼女はすぐに首を振って「なんでもない」と言った。だがその声の調子に、何か言い知れぬ硬さを感じた。
棚を覗き込むと、奥に紙が貼られている。茶色に変色した薄い紙、墨の跡、朱の印影。見覚えがある。寺や神社で授かる護符――お札だった。
どう見ても不自然な場所に貼られている。何の装飾もない薄暗い棚の奥に、ひっそりと隠れるように貼られた一枚。思わず女子社員に尋ねたが、彼女は「知らない」とだけ言って視線を逸らした。
日が経つにつれ、俺の中でお札の存在は膨らんでいった。誰に聞いても首をかしげるばかり。そんな中、例の女子社員に軽い調子で「汚いから剥がそうと思うんだよ」と話してみた。すると、彼女の顔色がみるみる蒼白になった。「ダメ」と、声を震わせて訴えた。その必死さに、冗談ではないと知った。
彼女は語った。
「この店ができてから、社員は必ず年に一度、大きな怪我をする。救急車を呼ぶほどじゃないけど、骨折や深い切り傷で病院に行くような怪我。最初は偶然だと思われていた。でも、あまりに続くから、ある人が神社でお札をもらってきて貼った。それからは嘘のように怪我が止まった。知っているのは、もう私しかいないの」
冗談だろう、と思ったが、彼女の真剣さは揺らがない。
だが俺には心当たりがあった。深夜の店に泊まり込みをしていたとき、無人のフロアで呼び出しベルが鳴った。事務所にいると、ドアノブがガチャガチャと乱暴に回された。ハサミを持って確かめても、誰もいなかった。――あれと、お札の話がつながったのだ。
だから、迷わず剥がした。
女子社員は目を見開いて「やめて」と叫んだが、埃にまみれた紙を指で剥ぎ取ると、棚の奥はただの木の板に戻った。俺は肩をすくめて「これで怪我が止まるならいいじゃないか」と言った。
だが次の日曜日、店は異様なほど混み合った。
二時間待ちの客がずらりと並び、厨房は戦場と化した。俺は調理のテンポに酔い、半ば興奮していた。そんな中、食材を切らして裏の冷蔵庫へと急いだ。途中にあるアルミ製の軽いドアを「トン」と押し開け、駆け抜けようとした瞬間だった。
開いたはずのドアが、あり得ない速さで「ビュン」と跳ね返り、俺の顔面に直撃した。骨に響く衝撃。左目のまぶたが裂け、血が噴き出す。鏡に映った自分の顔の左半分は真っ赤に染まっていた。
幸い、命に関わる傷ではなかったが、傷跡は今も残っている。
あの時ふと思った。「お札は怪我を防いでいたんじゃないのか。あれを剥がしたから、これが起きたのか」……だが、その時はまだ甘かったのだ。
店には社員が二人いた。店長と俺。
俺は顔に傷を負ったが、それだけだ。問題は店長だった。
お札を剥がして一ヶ月ほど経った頃から、店長の体調が目に見えて悪くなった。休みがちになり、やがて打ち明けた。「白血病になった」と。俺は言葉を失った。だが、知る者はわずか二、三人に限られた。本人は「薬で抑えられるから大丈夫」と笑おうとしたが、その笑みは痩せた顔に引き攣っていた。
俺と例の女子社員は、恐る恐る話し合った。「お札……関係あるのかな」
結局、彼女は再び同じ神社を訪れ、同じようにお札をもらってきた。そして元の棚に貼り直したのだ。すると、店長の症状は次第に和らいでいったという。俺はその頃、別の店舗に転勤となり、詳細は知らない。ただ、新たに配置された社員に怪我はなく、日常は戻ったようだった。
俺の顔には今も細い傷が残っている。鏡で目を凝らすたび、あのドアの衝撃を思い出す。そして同時に、棚の奥で埃に覆われながらも息を潜めていたお札の姿が蘇る。
あれは何を封じ、何を呼び込んでいたのか。剥がすまでは、ただの紙切れにしか見えなかった。だが、今ならわかる。店を覆う何かを押さえつけていたのは、確かにあの薄い紙だったのだ。
あの日、俺が軽い気持ちでそれを剥がさなければ、傷も、店長の病も起きなかったのかもしれない。だが――もし剥がさなければ、俺はいまだにあの声のない呼び鈴や、深夜のドアノブに怯え続けていただろう。
どちらが正しかったのか、今もわからない。ただ一つ確かなのは、あの古い店舗には、誰も知らない「帳面」があるということだ。人の手で拭き取れる油や埃よりも、はるかに濃く、落とせないものが。
[出典:716 :本当にあった怖い名無し:2011/10/07(金) 11:12:02.09 ID:BDZgnohm0]