あの夜のことは、いまでも話すたびに喉の奥が冷える。
中学の同級生と再会した席で「怖い体験はあるか」と聞かれたとき、最初に浮かんだのがあの合コンだった。二十代半ば、研究所に籠もる毎日で女の気配とは無縁だった俺に、友人が「看護師との合コンを組んだ」と言い出した。休日の海浜公園に、男三人、女三人、仲介の友人。七人のはずだった。
時間になっても友人は来ない。電話口で「腹痛で無理だ」と言う。もう一人の男も姿を見せない。顔を知っているのは友人だけだった。十分だけ待とうと決めたとき、ベンチにうつむいて座る若い男に目が止まった。声をかけ、友人の名を出すと、男はすっと立ち上がり、「じゃあ、行きましょうか」とだけ言った。
それで全員が納得した。
喫茶店、公園、居酒屋。流れは普通だった。だがそいつだけが、どこか均質だった。笑うでもなく、沈むでもなく、返事は的確すぎるほど短い。場が白けたころ、「今日は解散で」となった。
帰り際、男が言った。「××方面に帰ります。送りますよ」
俺と、同じ方向の看護師一人が乗った。中古の軽自動車。後部座席に並んで座ると、妙に車内が静かだった。エンジン音だけがやけに遠い。
しばらく走ると、道路脇に石の地蔵が並び始めた。最初は一体、二体。やがて途切れなく続く。百、二百。ライトに照らされ、顔が割れ、口が裂けている。ひび割れの影が笑い皺に見えた。
隣の彼女の肩が震えた。
そのとき、運転席から声が落ちてきた。「この辺は出るらしいですよ」
「何がだ」聞き返しても、答えはない。ハンドルを握る手だけが、妙に安定している。
彼女が小さく言った。「さっきも、あのスタンド通りましたよね」
確かに同じ自販機、同じ看板。俺たちは円を描いている。だが男は笑う。「一本道ですよ。気のせいです」
低い笑いが、割れた地蔵の口から漏れた音に重なった。
やがて男はカーステレオにテープを差し込んだ。無音。沈黙だけが続く。
「音、出ないな」俺が言うと、男は平然と答えた。「留守中に家で回してたんです。誰かが話してるかもしれないでしょう」
誰が。
喉が詰まり、それ以上聞けなかった。会話を続ければ、何かが確定してしまう気がした。
突然、彼女が悲鳴をあげた。窓の外、再び地蔵が並んでいる。さきほどより近い。割れた顔が、車を覗き込んでいる。
「止めろ」
叫んだ瞬間、車は静かに停まった。俺と彼女は転げるように外へ出た。ドアが閉まる音もなく、車はそのまま走り去った。赤いテールランプが闇に溶ける。
地蔵はなかった。
潮の匂いがした。足元は砂。顔を上げると、海浜公園の駐車場だった。集合したあの場所だ。一本道を何十分も走っていたはずなのに。
翌日、友人に確認した。三人目の男は時間を一時間間違え、誰にも会えず帰ったという。
では、あの運転席にいたのは誰だったのか。
後日、同じ道を昼間に走った。地蔵の群れはなかった。一本道も、迷う余地などないほど単純だった。
それでもときどき思う。あの夜、俺たちは送られていたのではなく、迎えに行かれていたのではないかと。
そしてあのとき、降りる判断をしたのは本当に俺だったのかと。
(了)