二年前の夏、俺はバイクで北海道を走っていた。
金を使わないと決め、道の駅と野宿を繋ぐ三日間の予定だったが、距離の感覚を誤った。町は遠く、人の気配は消え、ガソリンスタンドの営業時間だけが行動を縛った。二日目の深夜、燃料が底をつきかけ、仮設トイレしかない道の駅でエンジンを止めた。
コンクリートに寝転び、月を見上げていると、遠くでトラックが一台通り過ぎた。静寂が戻った直後、仮設トイレのドアが開いていることに気づいた。誰も来ていないはずなのに、開いている。その事実だけが異様だった。
中を覗くと、女が倒れていた。顔色がなく、息の有無も分からない。警察に連絡しようと踵を返した瞬間、背後で衝撃音がした。振り返ると、女が立っていた。無表情のままこちらを見つめ、扉を拳で叩き続ける。その音が、骨に直接触れてくるように重い。
恐怖に耐えきれず怒鳴ると、女は崩れるように俯き、「どうして」と呟いた。次の瞬間、自分の左腕に噛みついた。血が落ちるのを見たところまで覚えている。そこから先は、バイクに跨り、走り出した感触だけが断片的に残っている。
目を覚ますと病院だった。何が起きたのか説明は曖昧で、警察は俺を拘束した。女を殴り倒したという。否定しようとしたが、言葉が形にならない。隔離病棟のベッド脇にノートがあり、俺の筆跡で短い文が繰り返し書かれていた。助けてくれ。あの女が。誰も俺を信じてくれない。
医師と名乗る男が現れ、静かに言った。君は彼女とここにいる。ずっとだ。その直後、背後から重みが肩に乗った。血の匂いがした。
次に目を覚ましたのは自宅のアパートだった。病院の記憶は夢だったのか。だが、洗面台の鏡に映る自分の肩には、薄い歯形が残っていた。
それから、女は時々見えた。駅の構内、夜道の窓ガラス、エレベーターの閉じかけた扉。誰かに相談し、探偵だという男に会った。彼は話を聞き、何かを調べ、除霊は終わったと言った。女はいない。もう大丈夫だと。
確かに、その夜から女は見えなくなった。
見えない、ということだけが不自然だった。
仮設トイレの前を通る夢を見る。扉は閉じているのに、内側から叩く音だけがする。目覚めると、枕元にノートがある。見覚えのないはずのノートだ。ページを開くと、俺の字で一行だけ書かれている。
どうして。
[899 : ◆lWKWoo9iYU :2009/06/11(木) 10:34:08 ID:T70ctGeH0]