祖母は、昔から仏教に深い敬意を抱いていた。
朝は欠かさず仏壇の前で手を合わせ、静かにお経を唱える。その声は、まるで風鈴の音のように柔らかで、子どもの頃はそれを聞きながら眠気まなこをこすっていたのをよく覚えている。
「お釈迦様はね、人間の苦しみをなくすために…」
「人は皆、煩悩を抱えて生きているんだよ」
そんな話を、小学生の俺にでもわかるよう噛み砕いて語ってくれるばあちゃん。知識もあるし、揺るがない信仰心も持ってる。ある意味、俺の中では“筋の通った人”だった。
でも――一方で、彼女の信仰には影があった。他の宗教に対する露骨な拒絶。特にキリスト教や新興宗教にはものすごく冷たく、テレビでそれらに関する話題が出ようものなら、
「こんなもん、詐欺だよ。アホくさ」
と、鼻で笑っていた。
そんなある日、大学の学園祭に出かけた俺は、校舎の掲示板で「現代政治と宗教の交差点」と題された討論イベントのチラシを見つけた。興味を惹かれて入ってみたら――
会場は異様な雰囲気だった。壇上にはディスプレイが設置され、そこには金ピカの背景で語る初老の男の姿。明らかに“討論”ではなかった。
「この世の苦しみは“救いの光”によって浄化されます」
「今こそ、真実に目を向けましょう」
延々とそんなビデオが流れ、会場スタッフらしき人が小声でこうささやいてきた。
「これ、無料の書籍です。ぜひお持ち帰りください」
気づけば、俺の手には厚みのある本が4~5冊。
「……うわ、やっちまった」
帰り道、捨てようかとも思ったけど、ふと祖母の顔が浮かんだ。
(ばあちゃんなら、きっと鼻で笑って燃えるゴミに突っ込むだろ)
軽い気持ちで、家に帰ってその本を渡した。
「こんなんもらったわ。ネタにでもして笑ってくれ」
すると、祖母は興味深そうに表紙を撫で、静かに言った。
「ふぅん……どれ、読んでみようかね」
そのときはまさか、あれほど深く入り込むとは思ってもみなかった。
数日後。
「教祖先生がね、『魂の波動』っていう概念を説いててね、これがまた仏教とも通じるところがあるんだよ」
祖母の口から“教祖先生”なんて言葉が飛び出した瞬間、俺は一瞬耳を疑った。
「え、ばあちゃん、それ……あの新興宗教の話だよ? 前に馬鹿にしてたじゃん」
「ばかに? そんなことしてないよ。私はね、正しいものは正しいと思うだけ」
「……いや、してたよ」
気まずい空気が流れる。
その日からというもの、祖母の話題は“教祖先生”一色になった。仏教の話題はほとんど出なくなり、代わりに毎日のようにこんなセリフが飛んでくる。
「あなたも読むといいよ。きっと目が開かれる」
「信じることができないって、心がまだ迷ってるんだね」
「罰が当たるよ、そんな言い方して」
しまいには、俺が「その人、俺は信用できない」と伝えても、祖母はまったく聞く耳を持たず、
「あなた、それは傲慢ってものよ。自分だけが正しいと思ってるんでしょ」
と逆に責めてくる始末。
母も困り果てていた。
「最近、あの人、弟子にでもなった気でいるのよ。もう完全に“信者の顔”になってる」
さらに祖母は、祖父の愚痴を頻繁にこぼすようになった。
「じいさんは本当に分からず屋で、愚かで、話にならん」
これまでそんなこと一度も言ったことがなかった祖母が、まるで別人のように苛立ちをぶつけてくる。
俺は、心底後悔していた。
(あのとき、捨てればよかったんだ。なんで渡したんだ、俺……)
そして、ある日。
「……ムラカミリュウコウの本、知らないかい?」
祖母が妙なことを言い出した。教祖の名前を言い間違えたのか? それとも認知症が進んだのか?
不安がよぎった俺に、弟がこっそり耳打ちしてきた。
「あの本、僕が全部処分した」
……あいつ、やってくれた。
「ばあちゃんの様子、ちょっとヤバいと思ってさ。こっそり捨てた」
もちろん、それで完全に以前の祖母に戻ったわけじゃない。電波っぽい言動や、プライドだけで凝り固まったようなところは残っている。
けど、それでも――
宗教の話題が少しずつ仏教に戻ってきたのは確かだった。最近ではまた、仏壇の前で般若心経を唱えている。
「色即是空、空即是色……」
その声は、昔のあの優しかった祖母に、少しだけ重なって聞こえた。
あの時の自分の軽率さは、一生忘れないと思う。
信仰というものの根深さと、人の心の脆さと、そして取り返しのつかない一瞬の選択。
あの本を「ネタになりそうだな」なんて思って渡した俺が、すべてのきっかけだった。
だからこそ、こうして言葉にして吐き出しておく。
忘れないように。もう二度と、同じことを繰り返さないように。
そして――ばあちゃん、ごめん。
今でも、あんたのことは、変わらず大好きなんだ。
(了)
[出典:590 :本当にあった怖い名無し:2005/12/22(木) 02:03:21 ID:snKNBXq10]