祖母は、昔から仏教に深い敬意を抱いていた。
朝は欠かさず仏壇の前に座り、静かに経を唱える。子どもの頃、台所の湯気と混ざるあの声を聞きながら目を覚ました記憶がある。ゆっくりと、揺るがず、誰に聞かせるでもない調子だった。
他の宗教の話題になると、祖母は決まって顔をしかめた。
「流行りもんだよ。人の弱みに付け込む」
それが祖母の一貫した姿勢だった。
大学の学園祭で、宗教と政治を扱う討論会があると聞き、軽い気持ちで会場に入った。だが壇上で流れていたのは討論ではなく、金色の背景の前で語る男の映像だった。
「苦しみは、正しい波動によって浄化される」
繰り返される言葉と、やけに整った笑顔。出口付近で「無料です」と手渡された分厚い本を、断りきれずに持ち帰った。
家に帰り、冗談半分で祖母に差し出した。
「こんなのもらった。笑い話の種にでも」
祖母は表紙を撫でた。鼻で笑うと思っていた。
「ふぅん」
それだけだった。
数日後、祖母はその本を膝に置いていた。
「この人の言う『光』ね、仏教とも通じるところがある」
耳を疑った。あれほど否定していたはずなのに。
「ばあちゃん、それ、前に詐欺だって言ってたよな」
「私はね、正しいものは正しいと言うだけだよ」
その日から、祖母の話題はその教祖一色になった。仏壇の前に座る時間は減り、本を開く時間が増えた。
「あなたも読むといい。まだ目が閉じている」
「信じないのは、恐れているからだ」
言葉の端々が変わっていった。柔らかかった声に、妙な確信が混じった。
やがて祖母は、祖父を「理解の遅れた人」と呼び始めた。これまで愚痴などこぼさなかったのに。
母も戸惑っていた。
「最近、仏壇より本のほうを大事にしてるのよ」
ある晩、祖母が唐突に言った。
「ムラカミリュウコウの本、見なかったかい」
教祖の名前とは違う。言い間違えかと思った。
その夜、弟が小声で言った。
「あの本、全部処分した」
祖母が眠っている間に、こっそり。
翌朝、祖母は何も言わなかった。机の上はきれいに片づいていた。
数日後、祖母は再び仏壇の前に座っていた。
「色即是空、空即是色……」
昔と同じ節回しに聞こえた。だが、よく耳を澄ますと、言葉の並びがわずかに違っていた。
「色即是光、光即是色……」
聞き間違いかと思った。もう一度。
「色即是光」
祖母は目を閉じたまま唱え続ける。穏やかな顔だった。
その夜、仏壇の引き出しを開けた。線香の箱の下に、薄い冊子が一冊だけ残っていた。見覚えのない表紙。金色でもなく、白地に黒い文字。
《光はすでに内にある》
著者名はなかった。
弟は確かに全部捨てたと言った。ごみの日も確認した。
冊子を閉じると、後ろから声がした。
「それはね、捨てられないよ」
祖母が立っていた。
「光は、持ち帰った人の中に残るからね」
笑っていた。昔と同じ優しい顔で。
翌朝、祖母は何事もなかったように経を唱えていた。
「色即是空、空即是色……」
今は正しい。
だが、ときどき、節の合間に、別の言葉が混ざる。
はっきりとは聞こえない。だが、確かにある。
そして気づいた。
最近、無意識に口にしている。
「目を開く」という言い回しを。
[出典:590 :本当にあった怖い名無し:2005/12/22(木) 02:03:21 ID:snKNBXq10]