大学を出て東京に出てきてから、十年以上が経つ。
そのあいだに二度引っ越した。大した回数ではないが、周囲を見渡せば、ほとんどの友人が一度は部屋を変えている。東京では、住み続けることのほうが珍しい。
酒の席でその話になると、必ず「事故物件」の話に流れる。家賃が安い理由、告知義務の抜け道、契約書の文言。笑い話のように語られるが、どこか本気で探り合っている空気がある。
その夜も、ひとりがぽつりと切り出した。
「俺、内見で変なの見たんだよ」
彼は引っ越し先を探していて、二十三区内で三十六平米、四万円弱という部屋を見つけた。相場より明らかに安い。仲介業者に希望を伝えると、間を置かずに返ってきたのは「おすすめしません」という一言だったという。
理由は曖昧だった。「実質使える部分が広くないから」とだけ。
彼は、それでも見に行った。
建物はごく普通の鉄筋コンクリート造だった。ただ、エントランスに入った瞬間、空気が重い。湿気とも違う、金属のようなにおいが鼻の奥に残る。
間取り図を見せられたとき、妙な配置だと思ったそうだ。細長い廊下の先に水回り、曲がった先に引き戸。さらにもう一つ引き戸があり、中央に大きな部屋がある。周囲をぐるりと取り囲むように、ほかの空間が配置されている。
業者が淡々と言った。
「この中央の部屋は、閉めたままでお願いします」
生活できる範囲は半分ほどになる、と。
冗談かと思ったが、業者は笑わなかった。鍵を開け、最低限の部分だけを案内する。壁紙は白いはずなのに、どこか濁って見える。蛍光灯をつけても、光が床まで届かない。
最後に、業者が立ち止まった。
「一度だけ、確認しますか」
そう言って、中央の引き戸に手をかけた。
開いたのは、畳敷きの部屋だった。空気が動かない。業者は中に入らず、敷居の外で止まる。
「ここには入らないでください」
それだけを言った。
視線を動かすと、奥に黒い箱のようなものがあるのが見えた。扉は閉じている。部屋全体が、そこを中心にして沈んでいるように感じたという。
「住むなら、閉めたままで」
業者はそれ以上説明しなかった。
彼は契約を見送った。
それだけの話だ、と彼は言った。
だが数日後、別の部屋を契約し、引っ越しを終えた夜のことだ。間取り図を改めて見ていて、違和感を覚えたという。
新しい部屋の図面にも、使い道の曖昧な空間があった。収納でもなく、部屋とも呼べない、図面上だけの四角い区画。
内見のとき、そこは確かに物置として説明された。扉も開けたはずだ。だが今、思い出そうとすると、内部の記憶が抜け落ちている。
空だったのか、何かが置いてあったのか、まるで思い出せない。
気になって、その夜、彼はその扉の前に立った。もちろん、何の注意も受けていない。開けてはいけないとも言われていない。
それでも、手が伸びなかったという。
「別に怖くないんだ。ただ、開けたら、もう図面どおりの部屋じゃなくなる気がする」
彼はそう言って、話を終えた。
帰宅してから、俺は自分の部屋の間取り図を引き出しから出した。引っ越したときに不動産会社から渡されたものだ。
何度も見たはずの図面なのに、中央に、記憶にない四角がある。
壁で囲まれているが、出入り口が描かれていない。
そんなはずはない。生活していて、そんな空間があるはずがない。
それでも、図面には確かにある。
今も、部屋の真ん中に立つと、足の裏にわずかな傾きを感じる。そこだけ床が沈んでいるような感触だ。
俺はまだ、確かめていない。
確かめないままのほうが、間取りは正しいままでいてくれる気がする。
[出典:443 :本当にあった怖い名無し:2014/09/04(木) 03:32:32.94 ID:c//tzQKb0.net]