祖母が子供の頃に見た話だ。
昭和のはじめ、祖母の村にはひときわ大きな屋敷があった。白い塀が長く続き、門の前を通ると、子供でも自然に声を落としたという。
その屋敷の端に、小さな小屋が建っていた。
小屋というより、土壁で囲った箱のようなものだった。窓は高いところに一つだけあり、格子がはまっていた。入口には外側からではなく、内側にも鍵のような金具が見えた。誰が何のために閉めているのか、子供には分からなかった。
村の大人たちは、そこを「座敷牢」と呼んでいた。
ただ、祖母はその呼び方が嫌だったという。座敷というほど立派ではなく、牢というほど人目につくものでもない。犬小屋にしては大きく、人の住まいにしては低すぎた。雨の日には壁の下が黒く湿り、夏にはそこだけ空気が腐ったように重くなった。
中に誰がいるのか、子供たちは聞かされなかった。
地主の娘だと言う者もいた。娘ではないと言う者もいた。生まれつき人に見せられない姿だったのだとか、病を持っていたのだとか、気がふれていたのだとか、大人たちは声を小さくして勝手なことを言った。
ただ一つ、誰も疑わなかったことがある。
あの小屋には、女がいる。
それだけだった。
食事は毎日、屋敷の者が運んでいた。朝と夕方に盆を持っていき、少し経つと空になった膳を下げてくる。誰も中を覗かない。覗いてはいけない、と言われていた。
祖母も曾祖父から、あそこへは近づくなときつく言われていた。
「見たらいけん」
「何がいるの」
「見たらいけんもんだ」
それ以上は教えてくれなかった。
それでも子供は見る。
祖母は何度か、道端の草を摘むふりをして小屋のほうを見たことがある。窓の奥はいつも暗かった。ただ一度だけ、格子の向こうに白いものが動いた。手だったのか、顔だったのか、布だったのかは分からない。
そのとき、中から小さな音がした。
泣き声ではなかった。笑い声でもなかった。
戸の内側を、指でゆっくり撫でているような音だったという。
それからしばらくして、村で騒ぎが起きた。
昼前だった。祖母は家の中で針仕事をする母親のそばにいた。外から、女の叫び声が聞こえた。
最初は犬がひかれたのかと思ったそうだ。けれど、続いて男たちの怒鳴り声がした。
「出たぞ」
「戸を閉めろ」
「子供を外に出すな」
母親は祖母の腕をつかみ、奥の部屋に押し込んだ。
「見るな」
そう言われると、かえって見たくなる。
祖母は障子の破れたところから、庭先の道を見た。
女が走っていた。
髪は長く、ところどころ固まっていた。着物は膝のあたりまで裂け、足は裸だった。痩せた体に、皮だけが余っているように見えた。顔は老婆のようにしわくちゃだったが、走り方は子供みたいだったという。
泣いていた。
けれど、その泣き声は助けを求めるものではなかった。誰かに叱られている子供が、言い訳をしながら逃げているような声だった。
祖母の家の前を通り過ぎるとき、女がこちらを見た。
目が合った。
祖母は声も出せずに固まった。女は足を止めなかった。ただ、こちらを見たまま、口を動かした。
その言葉を、祖母は大人になるまで誰にも言わなかった。
「まだ閉めるの」
そう聞こえたという。
女はそのまま村の外へ走っていった。追いかけていた屋敷の男たちも、大人たちも、しばらくして戻ってきた。誰も大きな声を出さなかった。夕方には、いつものように田んぼのほうから蛙の声がして、村は元に戻ったように見えた。
数日後、地主が村の家々を回った。
「身内の者が迷惑をかけた」
「遠くへ預けた」
「もう心配はいらない」
そう言って頭を下げたらしい。
どこへ預けたのか、誰も聞かなかった。聞けなかったのではなく、聞かないことが村の決まりのようになっていた。
それから小屋は空になった。
空になったはずなのに、屋敷の者はしばらく食事を運び続けた。祖母はそれを見た。朝と夕方、盆を持った女中が小屋へ入っていき、少しして空の膳を持って出てくる。
祖母がそれを母親に言うと、ひどく叱られた。
「あれは見たらいけん」
空になった小屋に、なぜ膳を運ぶのか。
祖母はそれを聞けなかった。
やがて戦争があり、地主の家は土地を失った。屋敷は壊され、塀もなくなった。あの小屋も、いつの間にか消えた。
何十年も経って、祖母と一緒に村を歩いたことがある。
古い道は広げられ、田んぼの一部は住宅になっていた。祖母は足を止め、郵便局を指さした。
「あそこだよ」
何のことか分からずにいると、祖母は言った。
「あの小屋があったところ」
そこには、ごく普通の郵便局が建っていた。ガラス戸の向こうで人が順番を待ち、窓口の職員が荷物を受け取っている。自転車に乗った男が来て、封筒を出し、すぐに帰っていった。
祖母はその様子を見ていたが、中には入らなかった。
「使わないの」
「使わない」
それだけだった。
あとで母に聞くと、祖母はその郵便局だけは一度も使わなかったという。近くにあっても、わざわざ隣町まで歩いて手紙を出した。年を取ってからも同じだった。足が悪くなっても、あそこだけは避けた。
理由を聞かれると、祖母はいつも同じことを言った。
「あそこから出したものは、外へ行く気がしない」
祖母が亡くなったあと、遺品を整理していると、古い葉書が何枚も出てきた。
宛名は書かれていない。裏にも何も書かれていない。ただ、すべての葉書の右下に、小さく鉛筆で丸がつけられていた。
母は気味悪がって捨てようとしたが、私は一枚だけ残した。
今も机の引き出しに入っている。
取り出すたびに、紙の端が少し湿っている。古い紙だからだと思っている。そう思うことにしている。
ただ、一つだけ気になることがある。
この話を書こうとしてから、その葉書の丸が、少しずつ濃くなっている。
(了)