俺は霊感なんて一切ない人間だ。幽霊を見たこともなければ、心霊スポットに行っても寒気すら感じない。
けれど、あの時だけは、どう説明していいかわからない体験をしてしまった。
大学を出てすぐの頃、俺は上京して新しい職場に馴染もうとしていた。ようやく一人暮らしの段取りもつきはじめ、心細さの隙間を埋めるように大学の先輩と連絡を取るようになった。その先輩から飲み会に誘われたのが、すべての始まりだった。
先輩は以前、マルチ商法まがいの仕事をしていた。俺も勧誘されたが、丁寧に断ったら、それ以上は何も言ってこなかった。だから今回の飲み会もまた勧誘かと思って身構えたが、先輩は笑って「違うよ。俺も友達に誘われただけ」と言った。
経営者や自営業者が多く集まる会らしい。二十代の若い社長なんて想像もつかなかった俺は、興味本位で参加した。
会場は十人ほど。確かにみんな若かった。会社設立の準備をしているとか、すでに独立しているとか……俺だけが一介の新入社員で、肩身が狭い思いをしていた。
そんな場にいたのが「幸子」だった。痩せていて、肌は荒れ、黒髪を無造作にまとめていたせいで、不健康な印象しかなかった。けれど彼女は自分の会社を持つ女社長で、周囲の参加者の多くは彼女の知り合いらしかった。みんなが「さっちゃん」と呼び、親しげに接していた。
幸子は、俺にまっすぐ近寄ってきて笑顔で「今度ご飯行こうよ」と声をかけてきた。声は妙に可愛らしく、場慣れしている印象があった。俺は不思議に思いながらも名刺を受け取り、従姉妹が美大に通っていることを話したら「仕事紹介できるかも」と言われ、なんとなく会う約束をしてしまった。
……ここまでは、ただの出会いの話にすぎなかった。
二週間後の金曜、約束の日。
駅前で待っていると、幸子から電話がかかってきた。遅れるとのことだった。そこで俺は初めて奇妙な音を聞いた。
電話口から、ジジジ……とラジオのような雑音が混ざり、切れる直前に「……ああ」と、子供のような声がした。
周囲は人混みでざわついているし、気のせいだと思った。
だが幸子が到着するまでの間、もう一度電話があり、その時の雑音は「くちゃ、くちゃ」と口を噛みしめるような音に変わっていた。雑音の隙間から、今度は「きゃふ」と赤ん坊の声が混じった。
背筋が粟立つのを必死でごまかした。
待ち合わせ場所に現れた幸子は、地味なワンピース姿だった。痩せた体に不釣り合いなほど大きな瞳がぎょろつき、俺の中で嫌な予感が膨らんでいった。居酒屋に入り、従姉妹の件を相談したが、返ってきたのは高額な講習費の話ばかり。とても現実的ではなかった。
そこから話題は彼女自身の人生に移った。
彼氏がどうだ、結婚したいだの、玉の輿に乗りたいだの……取りとめもない愚痴。俺は半ば聞き流していた。
その時だ。
また聞こえた。
はっきりとした赤ん坊の声。「きゃふ」と弾むような笑い声。居酒屋のざわめきの中でも、耳元に直接囁かれたように鮮明だった。思わず周囲を見回したが、赤ん坊などどこにもいない。
俺の動揺を見透かしたように、幸子が低い声で言った。
「……私ね、赤ちゃんができたことがあったの。結婚すると思ってた。でも、相手に堕ろせって言われたの」
笑っていた顔が一瞬で変わった。三白眼のように白目が浮き出て、憎悪に満ちた表情に凍りついた。
「だから私は、幸せそうな家庭が憎い。仕事でお腹に絵を描くたびに思うの。死ね、って」
耳の奥にこびりつくようなその言葉に、体が震えた。
俺は何も言えずに固まっていると、幸子は立ち上がり、トイレに向かって姿を消した。
その瞬間、赤ん坊の泣き声が耳元で爆発した。
「ぎゃあああ……」
あまりのことに顔を伏せた。周囲の誰も反応していない。聞こえているのは俺だけだった。
数分後、戻ってきた幸子は、何事もなかったように微笑み「ねえ、三十五歳くらいで結婚できるって占い師に言われたんだ」と話し出した。
さっきの話を覚えていないのかと問いただしても、首を傾げるばかり。
俺は恐怖に耐えきれず、体調が悪いと嘘をついて帰った。泊まっていけと言われたが、全力で断った。
その後、俺は幸子と二度と会っていない。
だが噂は耳にした。
彼女は平然と人の男を奪い、金をせびり、仕事でも恩人を裏切り、妊婦に執拗にベリーペイントを迫るという。表面上は華やかな人脈に囲まれているが、実際には多くの人に恨まれているらしかった。
……あの夜、電話に混じった赤ん坊の声。
そして居酒屋で俺に囁いた呪詛。
あれは、幸子の中にいる「何か」が漏れ出してしまった瞬間だったのかもしれない。
俺は霊感のない人間だと今も思っている。だが、あの声だけは、現実だったとしか言えない。
今も人混みの中で、不意に携帯電話が鳴ると、あの雑音と赤ん坊の声が蘇る。受話器の向こうに本当に人間がいるのか、確かめずにはいられない。
[出典:498 :本当にあった怖い名無し:2015/06/23(火) 03:03:54.91 ID:RdZHUr5Z0.net]