今でもあの夏の倉庫の匂いを思い出すと、鼻の奥に鉄錆と湿った木の粉っぽさが蘇る。
北海道の片隅で暮らしていた祖父は、よく「うちは北前船の末裔だ」と言って胸を張っていた。幼い私には、その言葉の意味は半ば分からなかったが、祖父が語る時の誇らしげな声音と皺の奥の笑みだけは、強く記憶に残っている。
祖父の家の農地は広く、倉庫には時代を忘れた道具たちが積み上がっていた。木製の脱穀機、錆びた鍬、歯車の欠けた器具……その隙間に、船の板材らしきものが埋もれていた。陽に焼け、手で触れるとざらりとする木肌。祖父はそれを指さして「先祖が乗ってきた北前船の一部だ」と言った。私は胸が高鳴り、板に頬を押し当てて潮の匂いを探した。
子供だった私は、人形遊びよりも虫籠や秘密基地の方に夢中になる性分だった。祖父もそれを面白がり、夏休みのたびに倉庫を自由に探索させてくれた。暗い木組みの隙間を這うと、蜘蛛の巣が顔にかかり、乾いた麦の殻が服に貼りついた。私にとっては宝探しの洞窟であり、祖父は相棒だった。
ある日、祖父は倉庫の奥から木箱を持ち出した。「うちの家宝だ」と言い、皺だらけの手で丁寧に布をほどいた。現れたのは手のひら大の黒い箱。塗りも飾りもなく、光を吸い込むように沈んだ色をしていた。振ると箱の内側で硬いものが軽くぶつかり合う音がした。祖父の声は普段より低くなり、「この中には守り神がいる」と告げた。
守り神は海を渡るたびに嵐を退けたという。船がどれほど軋んでも、帆が裂けても、この箱だけは濡れなかったらしい。船が解体された後も箱は家に残され、子孫を守り続けてきた。祖父は「この守り神は水を司る」と真顔で語った。湧水が出たり、船旅が無事に終わったり、祖父自身も戦時中に救われたのだと。
戦争の記憶を語る祖父は、病床で笑っていた。「仮病だと叱られたが、あの腹痛のおかげで生き残った」と。私にはその話が冒険譚のように響き、「守り神さまってすごい」と胸を躍らせた。だが祖父は「女は嫌われる」と付け足した。子供心に針で刺されたように落胆したのを覚えている。
それでも私は諦めなかった。祖父の家を訪れるたびに、こっそり箱の前に小さな供物を並べた。甘い匂いのする飴玉、ビー玉のように光る硝子玉、髪を結ぶヘアゴム……子供にできる限りの飾りを差し出した。祖父に見つかると「守り神は男だぞ」と笑われたが、私は箱にだけ心を向けて祈った。

年月が経ち、祖父は病に倒れ入院した。家は空き、祖母も伯父の家へ移った。あの倉庫は埃をかぶり、誰も訪れなくなった。私は進学や仕事に追われ、足を運ぶことも少なくなった。
ある夏の日、家族で祖父の見舞いに行く前に、久しぶりに家の掃除を任された。玄関を開けると乾いた畳の匂いと、どこか懐かしい麦殻の香りが混じって鼻をくすぐった。裏庭の倉庫に近づくと、耳が痛いほどの蝉時雨が降り注いだ。壁板の隙間から熱気が吹き出し、肌にまとわりつく。汗で背中が湿り、布巾で拭ってもすぐに張り付いた。
掃除を終える頃には、蝉の声もただの雑音に聞こえた。だがその晩、私は四十度近い高熱に襲われた。身体が焼けるように熱いのに、指先は氷のように冷えた。病院で点滴を受けても熱は下がらず、医師は「夏風邪」と首を傾げただけだった。予定していた帰路のフェリーを一日延ばすことになり、私は布団の中で意識を漂わせた。
その夜、地面が吠えた。巨大な揺れが家を突き上げ、天井から埃が降った。停電し、闇に包まれた部屋で家族の声が響き、祖母を連れて避難した。翌朝、沿岸に押し寄せた津波の映像がテレビに映り、もし予定通りのフェリーに乗っていたらと想像して、全員が声を失った。
奇妙なことに、私の熱は地震直前にするりと引いた。汗で濡れた髪を押さえながら、私は心の中で一つの名前を思った。守り神。祖父に報告すると、彼は弱った声で頷き、「おまえはお転婆で男みたいだから、きっと守られたんだ」と微笑んだ。あの日の蝉時雨について尋ねると、「あれは警告だったのかもしれんな」と遠くを見るように言った。
地震後、再び祖父の家に戻ると、倉庫はしんと沈んでいた。あれほど鳴いていた蝉の声はなく、木箱だけが淡い光を吸い込んでいた。埃ひとつつかないその表面を撫で、私は深く頭を下げた。
やがて祖父は亡くなり、遺品整理の末に木箱は私の手に渡った。家族は「偶然だ」と首を傾げるばかりだったが、私は箱を抱えると、胸の奥に冷たい水を満たされたような安堵を覚えた。以来、釣りや川遊びに出かける前には必ず手を合わせる。奇妙なことに、悪天候に出会ったことは一度もない。
ある晩、箱を机に置いたまま眠ってしまった。夢の中で、波の音が耳に広がった。潮の匂いと木船の軋みが現実のように迫り、私は見知らぬ甲板に立っていた。濡れた板の上に同じ黒い箱があり、それを抱えた水夫が私を見て微笑んだ。髭の生えた顔は、若い頃の祖父に似ていた。だが次の瞬間、その顔は私自身のものに変わり、視線が重なった。
はっと目を覚ますと、机の上の箱がわずかに動いた気がした。中から、乾いた殻が擦れるような音がした。私は手を伸ばしかけて引っ込めた。以来、箱を振ることはしていない。
祖父の声が耳に残る。「守り神は男を好む」。その言葉の裏で、私は次第に気づいてしまったのだ。守られているのではなく、私はもう箱と一つに混ざりつつあるのかもしれない、と。
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