四、五年前のことだ。
取引先の藤木さんから、酒の席で聞かされた話がある。
酔って笑い話にするには、どうにも生々しすぎた。聞いている途中から、場の空気だけが妙に冷えていくのを感じていた。私は相槌を打ちながらも、藤木さんの顔色ばかりが気になって仕方なかった。冗談を言うときの軽さが、どこにもなかったからだ。
その夜、布団に入ってからも眠れなかった。
耳の奥に残った語り口と、あのときの藤木さんの目つきが、何度も思い返されてしまった。
以下は、藤木さんが語った内容を、ほぼそのまま一人称で書き起こしたものだ。
あれは、もう十年以上前の話になる。
仕事でインドネシアへ行った。佐々木と梅山、三人での出張だったが、日程にはかなり余裕があり、半分は休暇のようなものだった。最初の数日は町を歩き、海沿いの店で酒を飲み、土産を冷やかして過ごした。だが、三人ともこの国は二度目で、新鮮味は薄れていた。
退屈を持て余していたとき、佐々木が言い出した。
「ラフレシアを見に行こう」
冗談半分だと思った。幻の花だ。運が良くても見られるものではない。だが佐々木は本気だった。梅山が現地の伝手を頼り、ガイドを探してきた。条件を聞いたうえで、案内できるという男が見つかった。
翌朝、町外れで合流し、最低限の装備だけを整えて出発した。前日は安宿に泊まり、夜明け前からジャングルへ入った。
歩き始めてすぐに後悔した。
観光気分で踏み込む場所ではない。湿気が肺に貼りつき、足元はぬかるみ、肌に触れるものすべてが生きている気がした。一日目は何も見つからず、体力だけが削られた。
二日目も同じだった。成果はなく、疲労だけが積み重なった。引き返す話も出たが、ここまで来たのだからと、三日目も探索を続けた。
その日の午後だった。
収穫はなく、早めに戻ろうという話になり、来た道を引き返していた。しばらく歩いたところで、背後から佐々木の声が上がった。
「おい……あれ」
振り向くと、木々の隙間に、赤茶けた塊が見えた。距離はある。それでも、異様に目を引いた。視線を外せなくなる何かがあった。

ガイドが目を凝らした。
次の瞬間、顔色が変わった。
「走れ」
低い声だった。だが、はっきりと怯えが滲んでいた。
「黙って付いてこい。今すぐだ」
理由を聞く暇はなかった。
彼は振り返らず、来た道を引き返し始めた。私たちも無言で後を追った。
走り出して、すぐに分かった。
背後の空気が変わった。
鼻を刺すような臭いが漂ってきた。腐ったものではない。生きている肉の匂いだ。鉄のような、湿った匂い。振り返った瞬間、喉が詰まった。
それは、確実に距離を詰めてきていた。
地面を這うように、うねりながら進んでくる影。大きさの感覚が狂う。近づくほど、形が定まらない。ぬめった赤黒い塊が、こちらを意識しているのだけは分かった。
声が出なかった。
ただ、逃げるしかなかった。
枝が顔を打ち、足がもつれ、何度も転びそうになった。佐々木と梅山が我先にと走り抜けていく。誰も振り返らなかった。
やがて林を抜け、車道に出た。
そこでガイドが立ち止まった。
荒い呼吸の合間に、彼は一言だけ言った。
「もう、ここまでは来ない」
私たちはその場に崩れ落ちた。背後を振り返っても、ジャングルは沈黙していた。臭いも、いつの間にか消えていた。
「あれは何だったんだ」
私が聞くと、ガイドは首を振った。
「忘れなさい」
それだけだった。
それ以上、何も答えなかった。
話は、そこで終わらなかった。
数年後、梅山が再びインドネシアへ行った。
帰国後、酒の席で彼はぽつりと言った。
「あの話、向こうで少し聞いて回った」
詳しいことは語らなかった。ただ、誰に聞いても、途中で話を打ち切られたらしい。話題にすること自体を、嫌がられたのだという。
藤木さんは、そこまで話して口を閉じた。
今でも、時々夜中に目が覚める。
理由は分からない。ただ、目を開けた瞬間、部屋の空気が違う気がする。
湿った、鉄の匂いがすることがある。
そのたびに、藤木さんは息を殺して動かない。
窓の外を見ることはしない。
闇の向こうに、何かがいるかどうかを確かめてしまうのが、怖いからだ。
見られているかどうかは、分からない。
ただ、あの森で振り返ったときと同じ感覚だけが、今も消えずに残っているという。
――あれから、十年以上経った今でも。
[出典:171 本当にあった怖い名無し 2006/10/26(木) 05:11:25 ID:cQYTHW9f0]