あの夜のことを、いまでも龍子ははっきり覚えていると言った。
ただし、覚えているのは「怒鳴られたこと」ではなく、「見られたこと」だと。
二、三年前の夏、白良浜でバイトをしていた知人から聞いた話だ。観光客で賑わう季節、彼らは昼は浜辺で働き、夜は気まぐれに集まっては退屈を紛らわせていた。龍子もその一人だった。自分には霊感があると公言しながら、怖いものほど面白がる性格だった。
その夜、四人は三段壁へ向かった。昼間は観光客が絶えない断崖だが、夜九時を過ぎれば人影はまばらになる。飛び降りの名所としても知られている場所だ。海から吹き上げる湿った風が、岩肌にまとわりつく。
発端は、ただの悪戯だった。飛び降り場所に靴をきちんと並べ、本人たちは少し離れた位置に立つ。観光客が近づいたところで、ふいに振り向く。あるいは、断崖の縁に立ったまま、身動き一つせずに闇を見つめる。
それだけで十分だった。足を止め、息を呑み、目を逸らし、逃げる人もいた。四人は腹を抱えて笑った。誰も傷ついていない。そう思っていた。
交代で役割を変えながら、同じことを繰り返した。龍子と大輔が茂みに隠れ、千鶴と和也が縁に立つ。海は黒く、月は雲に隠れていた。遠くで波が砕ける音だけが続いていた。
そのとき、浴衣姿の男が現れた。
最初に気づいたのは千鶴だったという。足音もなく、背後に立っていた。顔は暗がりで判然としない。だが、怒っているとわかる表情だったらしい。
男は無言で近づき、千鶴の頬を打った。乾いた音がしたと彼女は言った。続いて和也にも。二人は反射的に謝ったが、男は構わず言葉を浴びせた。
軽い気持ちで命を弄ぶな。死ぬ覚悟もないくせに立つな。ここは遊ぶ場所じゃない。
怒鳴るというより、吐き捨てるような声だったという。説教は長くはなかった。言い終えると、男は二人の脇を通り過ぎ、闇の中へ消えた。
茂みにいた大輔は、何も見ていない。千鶴と和也が突然頬を押さえ、空間に向かって謝っているようにしか見えなかったという。
龍子だけが、うっすらと男の姿を捉えていた。輪郭が曖昧で、浴衣の柄もはっきりしない。だが、目だけはわかったと彼女は言った。闇よりも濃い色で、こちらを見ていた。
男は去り際、茂みのほうを振り向いた。龍子は、その視線が自分を通り越して、さらに奥を見ていた気がしたという。岩場の縁、そしてその先。まだ立っていない誰かを。
四人はその場を離れた。笑いは消えていた。千鶴の頬は赤く腫れ、和也の頬にも指の形が残っていた。大輔は納得がいかず、何度も同じ場所を見回したが、誰もいなかった。
翌日、彼らはもう一度三段壁へ行った。昼間なら何か説明がつくかもしれないと。だが、断崖の縁に、見覚えのない靴が一足だけ置かれていた。
前の晩、彼らは靴をすべて持ち帰っている。確認もしていた。
その靴は、男物でも女物でもない、サイズの曖昧な古い革靴だった。砂が入り込み、濡れてもいないのに重そうに見えた。
龍子は、その靴を見た瞬間に理解したと言った。昨夜、説教をした男は、自分たちを叱りに来たのではない。立っていた場所を、確認しに来ただけだと。
あの縁に、誰が立っているのかを。
それ以来、龍子は三段壁に近づかなくなった。ただ、時折夢を見るという。断崖の縁に自分が立っている夢だ。背後から足音が近づく。振り向こうとすると、視界が暗転する。
目が覚める直前、必ず同じ感覚があると言った。自分の背後に、もう一人立っている感覚だ。
誰なのかは、見ないままのほうがいい。
そう言って、龍子は笑わなかった。
あの夜、断崖に立っていたのは、本当に四人だけだったのか。あなたがその場所に立つとき、背後にいるのは風だけだと言い切れるだろうか。
[記:2003/06/28 21:58]