二十年以上前、俺は「声の仕事」に釣られて、妙な短期バイトに乗った。
決められた文を読むだけ。三週間で五十万。交通費と宿泊費は先払い。数字の強さに理屈は負けた。当時の俺は、声にだけは自信があった。
面接は都内の雑居ビル。医者でもない社員が、喉の奥を覗き込むように見て、口の動きと呼吸の癖を確認した。それだけで合格した。
現場は中心街から少し外れた新しいビルだった。夜になると人が消える区画で、ガラスの壁面が街灯を冷たく返している。入口は無人。カードキーをかざすと、音もなく扉が開いた。
「本日はB2へ」
地下二階。エレベーターを降りた瞬間、空気が変わった。湿気ではない。埃でもない。金属が乾いたまま置かれている匂いだった。工具箱を開けたときの、あの残り方。
廊下の突き当たりに、防音扉が並んでいる。上部の小さな表示にスタジオ番号と時間帯。参加者は十人。年齢も見た目もばらばらだが、全員が自分の声を信じている顔をしていた。
最初の異常は、音だった。
「う゛ぁ、ぁぁ……やめろ……!」
喉を引き裂くような叫びが廊下を転がってきた。次の瞬間、角を曲がって現れたのは、背の高い男だった。薄いグレーの服。顔色は悪くないのに、目だけが整いすぎている。
男は俺たちを見た。焦点は合っているのに、誰も見ていない目だった。口が動く。だが声は先に飛び出し、口元が遅れて追いつく。テレビの音ズレが人間の顔で起きている。
警備員が現れ、男を押さえた。男は暴れない。ただ視線をこちらに固定したまま、口を動かし続ける。
俺の耳に入ったのは、「次は、おまえらだ」だった。
だが口の形は、その言葉ではなかった。
警備員は男を扉の向こうへ連れていった。廊下は静まり返る。担当が現れ、何事もなかったように説明を始めた。
毎日指定の時間に録音。台本は当日配布。外出は禁止。途中で辞める場合は違約金。理由は「整合性」。サインはタブレットで済んだ。
宿泊は上階。簡易の個室が並び、窓は開かない。外は見えない。共用端末は通話専用で、登録番号は三つだけだった。
最初の一週間は何も起きなかった。
数字、短い会話、天気の文、謝罪文。感情を乗せるなと言われた。声は平らに。言われた通りにやれば終わる。
八日目の夜、歯を磨きながら小さく「おやすみ」と言った。
一拍遅れて、耳元で同じ声が返った。少し低く、乾いた響きだった。部屋にスピーカーはない。スマホは圏外だった。
気のせいだと思って寝た。
翌日、録音中に同じことが起きた。俺が読み終えたはずの文が、ヘッドホンの中で続いた。俺の声で、俺が読んでいない言葉が流れる。
エンジニアは「問題ありません」と言った。波形も正常だと。
他の参加者も似たことを言い始めた。自分の声が、勝手に続く。読んでいない語尾が補われる。微妙な抑揚が揃いすぎる。
夜、共用端末が点灯した。呼び出し音はない。ランプだけが脈打つ。Aが受話器を取った。
「もしもし」
受話器の向こうで、俺の声が言った。
「まだ足りない」
Aは受話器を落とした。端末は消えた。
それから、時間が分かるようになった。
録音開始が近づくと、喉が勝手に温まる。唾が増え、舌が動く。時計を見なくても、体が知っている。
十二日目の深夜、廊下の照明が白から青に変わった。向かいの部屋の男が、壁に額を打ちつけていた。
「やめろ、やめろ……」
途中で声が変わった。音程が揃い、抑揚が剥がれ、録音素材のような声になる。意味はあるのに、人の匂いがない。
警備員が連れていった。翌朝、その部屋は空だった。荷物も、しわも、何もない。
スケジュール表は変わらない。十枠のまま埋まっている。空いたはずの枠に、俺の名前が入っていた。
逃げることにした。
録音開始直前、体が勝手に「読む側」へ寄る時間に合わせた。非常扉は重かったが、押すと開いた。
搬入口の通路。生温い風。地上へ続く坂。
背後に気配があった。振り返った。
廊下の暗がりに、最初の男が立っていた。口が動く。声が遅れて追いつく。
「うまくやれよ」
その声は、俺の声だった。
外に出た。夜の街は普通だった。コンビニの明かり。信号の音。地下の匂いは薄れた。
帰宅して「ただいま」と言った。
一拍遅れて、壁が返した。
「おかえり」
高熱が出た。寝ているのに喉が動く。口の中で文が回る。意味のない文章が、勝手に並ぶ。
十日ほどで熱は引いた。
一ヶ月後、免許の更新に行った。写真を受け取って、手が止まった。
顔は俺だ。だが目だけが違う。焦点が少し外に置かれている。笑っていないのに、笑っている形をしている。
その日から、時刻が分かる。
録音開始の時間になると、喉が温まる。唾が増える。舌が動く。声が出たがる。
夜中、目が覚めると、天井が近い。白く平らで、音を吸い込む素材。数秒後、自分の部屋の天井に戻る。
電話は鳴らない。
それでも、ときどき耳の奥で声が始まる。
再生ボタンは押していない。
俺は読んでいない。
それでも、声だけが続く。
あの男の目を思い出す。
逃げようとしていたのではない。
見ていた。
揃う瞬間を。
俺の喉が、今も勝手に温まるのを感じながら。
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]