森川の従兄は、十年ほど前まで音を集める人間だった。
録音機材を担ぎ、反響の癖が強い場所を探して歩く。山中のトンネルや地下通路、廃屋、使われなくなった公共施設。中でも彼が繰り返し通っていたのが、県北部の湖畔に残る元製紙工場だった。
煉瓦造りの巨大な建物で、外観だけは保存対象になっている。昼間は観光客が写真を撮りに来るが、内部は封鎖されている。ただ、火曜の午前中だけは警備が甘く、内部に入れることがある。従兄たちはその時間帯を狙って、短時間だけ音を採取していた。
内部の吹き抜けホールは特異だった。
手を叩くと、音が一度壁に当たって戻り、遅れて天井からもう一度落ちてくる。場所を少し移動するだけで、残響の重なり方が変わる。音が空間の奥行きを可視化するような感覚があり、彼はそれに取り憑かれていた。
最後に工場へ入ったのは、濃い霧の出た火曜日だった。
湿度が高い日は、音が柔らかく歪む。輪郭がぼやけ、遠くまで伸びる。従兄はその変化が好きで、霧の日を好んで選んでいた。
その日は他の連中がほとんど来ていなかった。
視界は悪く、懐中電灯の光も霧に吸われる。だが音だけはよく返ってくる。従兄は決めた位置から順に録音を行い、ホール中央まで歩きながら反響の変化を記録した。自分の足音、息遣い、わざと落とした金属片の音。どれも理想的な波形だった。
一通り終え、ホール奥の資材置き場で機材の電源を切ったとき、前方に人の気配を感じた。
霧の向こうに、黒い影が立っている。
最初は仲間だと思った。
ただ、懐中電灯を持っていない。じっとこちらを向いたまま動かない。距離感が掴めず、影が近いのか遠いのか分からない。従兄は声をかけなかった。ただ、視線だけがこちらに向いているのが分かった。
影は人の形をしていた。
コートのようなものを着ているらしく、肩の線が不自然に沈んで見えた。霧に濡れているのか、輪郭が滲んでいる。それでも、そこに「立っている」ことだけははっきりしていた。
その瞬間、背後で足音がした。
遅れて来た音響仲間が合流したらしい。従兄は振り返り、短く声を交わした。もう帰ろう、と言われ、彼も同意した。再び前を見ると、資材置き場の奥にはもう誰もいなかった。
ホールを抜け、通路を歩く。
従兄が先頭だった。しばらく進んでから、後ろの懐中電灯の光が見えないことに気づいた。立ち止まりかけた瞬間、後方で光が点いた。何度か、規則的に明滅している。
急げ、という合図だと思った。
従兄は歩調を早めた。通路は曲がりくねっていて、非常灯が等間隔に設置されている。その一つに照らされた瞬間、背後の人物の輪郭がはっきりした。
仲間ではなかった。
体格が違う。歩き方も違う。懐中電灯を持っているが、光の揺れ方が不自然だった。
理解する前に、体が動いた。
走り出した。角を曲がった先に、また人影が立っていた。黒いコートのようなもの。先ほど資材置き場で見た影と、同じに見えた。
どうして先回りできるのか、という疑問は浮かばなかった。ただ、ここにいるべきでない何かが、通路を塞いでいるという感覚だけがあった。急停止し、壁にぶつかった。後頭部に衝撃が走り、視界が白く弾けた。
その直後、背後から何かが突進してきた。
だが、ぶつかる感触はない。体をすり抜け、壁も床も無視するように通り過ぎていった。風のような冷たさだけが残った。
床に倒れたまま、従兄は動けなかった。
耳元で、息がかかる。
おや……
死ななかったんだね……
声なのか、音なのか、判別できなかった。ただ、言葉として頭に入ってきた。次の瞬間、意識が途切れた。
気がついたとき、病院のベッドにいた。
同行していた仲間が救急車を呼んだらしい。頭が割れるように痛むのに、医師は軽く顔を見ただけで、花粉症ですね、と言った。従兄は反論する気力もなく、そのまま帰された。
翌日、森川が様子を見に来て激怒した。
再診を求め、同じ医師に診せた。医師はレントゲンを見て言葉を失った。明らかな頭部打撲と骨の異常があった。
昨夜は……と医師は首をひねった。
付き添いの方がいらっしゃいましたよね。お父様。顔を見た途端、花粉症だと思ってしまった。理由は分からない。ただ、その診断を伝えたとき、とても喜んでおられたのは覚えています。
従兄の父親は、五年前に亡くなっている。
入院中、受付には毎日のように見舞いの申請があった。
父親を名乗る人物からだった。会わせないでくれ、と従兄が頼み、病院側も断った。それでも申請は途切れなかったという。
退院後、従兄は録音機材をすべて処分した。
音を集めるのをやめた理由は語らない。ただ、今でも静かな場所に入ると、反響音の中に別の何かが混じる気がすると言う。
森川は最近、あの工場の外観写真を見た。
コメント欄に、こう書かれていた。
「音がいい場所ですね。中には入れませんか」
なぜか、その文だけが、やけに耳に残ったそうだ。
(了)