小学校を卒業するくらいまで、俺は市の外れにある古い団地の四階に住んでいた。
築年数は分からないが、外壁はところどころ剥がれ、階段の鉄柵は赤茶け、夜になると蛍光灯が半分ほどしか点かないような場所だった。団地の下には屋根付きの駐輪場があり、そこから階段を上って各階に行く構造になっていた。
その日、友達と遊んで帰るのが遅くなった。夕闇というより、もう夜に片足を突っ込んだ時間帯で、空は濃い群青色に沈み、団地の影が地面に溶けていた。駐輪場に自転車を止めて鍵をかけていると、階段の方から声が聞こえてきた。
最初は誰かが電話でもしているのかと思った。だが耳を澄ますと、それは明らかに二人分の声で、しかも口論だった。片方が怒鳴り、もう片方が何か言い返している。距離のせいで内容までは分からないが、感情だけが生々しく伝わってくる。声は二階付近から響いていて、階段の壁に反射して少し歪んで聞こえた。
その時点で、俺は足が止まった。夜の団地での喧嘩は珍しくなかったが、なぜかその声には近づきたくない感じがあった。怒鳴り声は収まる気配がなく、むしろだんだん激しくなっているように思えた。
少し待てば終わるだろうと考え、駐輪場の隅で様子を見ていたが、十分ほど経っても変わらない。帰らないわけにもいかず、横を通って階段を上がるしかないと腹を括った。
階段に向かって一歩踏み出した、その瞬間だった。
階段の裏側、ちょうど踊り場の死角になっている部分から、人の半身が見えた。全身ではなく、肩から腰あたりまでが一瞬だけ露出した感じだった。その姿が妙だった。普通に立っているのではなく、何かから必死に逃げようとしているように見えた。体が前に傾き、腕が不自然に伸び、動きが明らかに焦っている。
次の瞬間、死角の奥から、あり得ないものが現れた。
植物の蔦のようなものだった。太さは手首ほどで、色は黒っぽい緑。一本や二本ではない。束になったそれが、ぶわっと空間を押し広げるように伸びてきた。音はなかった。勢いだけが異常に速く、逃げようとしていたその人に一斉に絡み付いた。
蔦は腕や胴に巻き付き、引きずるようにして階段の裏へ引き戻した。抵抗するように激しく何かがぶつかる音がした。ガン、ガン、と階段の裏側に体を打ち付ける鈍い音が続いた。だが、不思議なことに、叫び声は一切なかった。さっきまであれだけ怒鳴っていたはずなのに、声だけが突然消えた。
十秒ほどだったと思う。時間の感覚は曖昧だが、そのくらいの短さだった。バタバタという音が止まると同時に、辺りは一気に静まり返った。まるで最初から何も起きていなかったかのように、夜の団地に戻った。
他の住人が顔を出すこともなかった。窓が開く音すらしない。蛍光灯のジジジという音だけがやけに大きく聞こえた。
俺はその場から一歩も動けなかった。階段を上がることなど到底できず、震える手で携帯電話を取り出し、家にいる母親に電話をかけた。事情をうまく説明できず、ただ下まで来てほしいとだけ伝えた。
数分後、母親が玄関から出てきて、階段を下りてきた。明かりの下に母親の姿が見えた瞬間、少しだけ現実に戻れた気がした。母親と一緒に階段を上がることになったが、あの場所に近づくにつれ、心臓が異様な速さで脈打った。
問題の階段裏には、何の痕跡もなかった。蔦もなければ、傷も、汚れもない。母親にさっきの話をしたが、母親は首をかしげるだけだった。さっきからずっと家にいたが、誰かが口論する声など一切聞いていないという。
四階まで上がり、部屋に入っても、俺の頭の中は落ち着かなかった。布団に入って目を閉じたとき、ふと気づいた。さっきの怒鳴り声が、外ではなく頭の中から聞こえた気がした。言葉は相変わらず分からない。ただ感情だけが、あの階段で聞いたものと同じ質感で再生された。
それは一瞬で消えたが、その後も何度か、静かな時にだけ同じ感覚が蘇った。実際の音なのか、記憶なのか、自分でも判別できない。あの団地を引っ越してから何年も経つが、今でも階段の構造を思い出すと、頭の奥で誰かが言い争っている気配がする。声はない。ただ、逃げ遅れた感情だけが、まだあそこに残っている気がする。
[出典:207 :本当にあった怖い名無し:2018/03/14(水) 13:22:12.38 ID:ewc0fwpDO.net]