時間外の救急外来で夜勤をしていた頃の話だ。
俺の仕事は救急で来た患者のカルテを作ったり、来院歴のある患者のカルテを探して医師に渡したりすることだった。紙のカルテがまだ現役で、保管期限を過ぎたものは廃棄していい決まりになっている。なのにうちの病院は整形外科だけ妙に古いカルテを捨てなかった。十五年以上前の分まで平気で残していて、そのせいで保管場所が三つに分かれていた。カルテ室、旧南病棟、そして外庭に残っていた旧保育園だ。
旧南病棟は通称が旧結核隔離病棟で、昼間でも暗い。けれど曰く付きなのは旧保育園のほうだった。外庭の端にぽつんと建っていて、窓は板で塞がれている。白い壁がところどころ剥げ、園庭だった場所は凍った土と雑草だらけになっている。病院が増築を繰り返す間に取り残されたみたいな建物で、そこに古い整形外科のカルテが詰め込まれていた。
旧保育園にカルテを取りに行くときには必ずやらなきゃいけない手順がある。先輩もその先輩も同じことを言ったし、俺も入った初日からきつく叩き込まれた。
一つ、旧保育園の正面扉をノックする。鍵もないし開かないドアだ。
二つ、裏口に回って外壁に付いている室内灯のスイッチを入れる。なぜかスイッチだけ外に設置されている。
三つ、裏口の鍵を開けて中に入る。
理由は誰も説明しない。質問すると決まって「そういうもんだから」「絶対にやれ」と返ってくる。病院なんて迷信が嫌いそうな場所なのに、その件だけは誰も笑わなかった。
その夜は雪がひどかった。病院の駐車場のラインが消えるほど降っていて、救急外来の窓から見える街灯の光も白くにじんでいた。時間外の患者は少なく、医師も看護師も仮眠室でうつらうつらしている。俺も眠気に負けかけていた頃、医師からカルテの指示が飛んだ。昔通っていた患者らしく、古い整形のカルテが必要だという。
行きたくなかった。雪の日に外庭を歩くのはそれだけで面倒だ。けれど仕事だから行くしかない。懐中電灯を持って外へ出ると、夜の空気が肺の奥まで刺さった。雪が音を吸うせいで、足音だけがやけに大きく感じる。
旧保育園の前に立つと、正面扉は相変わらず鍵穴すらない。ノックするのが決まりだと分かっていたのに、そのときの俺は頭が雑になっていた。裏口まで回るのが先だろう、どうせ誰もいないんだから。そう思って正面を素通りした。
雪に足を取られながら建物の裏へ回る。外壁に付いたスイッチを見つけて押すと、窓の隙間から鈍い光が漏れた。いつもはそれで安心するはずなのに、その夜は逆だった。光が入った瞬間、建物の中で何かが動いた気配がした。小さく、乾いた擦れる音。誰かが床を引きずったみたいな音。
気のせいだと決めて鍵を開けた。ドアノブを握った瞬間、ガラス越しに影が見えた。子どもの影だった。背の低い輪郭が四つ、こちらを向いて固まっている。園児の背丈だ。全員が同じ角度で首を傾けていた。
俺は一度ノブから手を離した。脳が理解を拒んで、指先だけが冷えていく。次の瞬間、その影が動いた。固まっていた四つが同時に笑った。声は聞こえないのに、笑っているのが分かった。口元だけが不自然に広がる。ガラス越しに白い歯が見えて、頬が裂けるほど横に伸びる。
そして滑ってきた。
走るでもなく歩くでもない。足が床を蹴る動きが見えないのに、影がこちらへ寄ってくる。窓の内側をつるつると移動して、ドアのすぐ向こうに顔が並んだ。幼い顔が四つ。目が大きい。目の中が濡れた黒で、こちらの呼吸を数えるみたいに瞬きもせず見ている。奥にもう一つ、光の届かない場所にも何かがいる気がした。見えているのに、見ないほうがいいと本能が言う。
俺は反射で鍵を回していた。鍵穴に刺さったままの鍵を乱暴にひねり、ドアが開かないように押さえつけた。手が震えて鍵がうまく回らない。窓の向こうで四つの顔が同じタイミングで口を開けた。声はやっぱり聞こえないのに、言葉の形だけが分かった。「あけて」と言っているようだった。
俺は外のスイッチを叩くように切った。光が落ちた途端、窓の向こうが真っ黒になって、顔も影も消えた。消えたことが怖かった。さっきまでそこにいたのに、闇に溶けたみたいに気配だけが残った。
振り返って走った。雪の上で何度も滑りそうになりながら救急外来に戻り、仮眠していた先輩を叩き起こした。「お願いだからカルテ取ってきてくれ」と言った自分の声が、子どもみたいに裏返っていたのを覚えている。先輩は寝ぼけた顔のまま「分かった」と言い、上着を羽織って出ていった。
しばらくして先輩が戻ってきた。顔色が妙に白い。雪の冷たさじゃない白さだった。先輩は俺の目を見ないまま言った。「カルテはなかったってことにして新しく作れ。」
俺は訳が分からなくて、見たものを説明しようとした。先輩は短く首を振った。「いいから。今夜はそれで終わり。」
その夜の救急はそれで回った。医師には「見つからないので新規で作りました」とだけ言った。医師は面倒くさそうに舌打ちして、紙の表紙に患者の名前を書いて終わりにした。俺は頭の中が雪みたいに白くなって、旧保育園の窓の内側に貼りついた四つの顔だけが何度も浮かんだ。
数日後、先輩からあの日の続きを聞いた。俺が辞めると決めた日に、送別会の代わりにコンビニのコーヒーを飲んでいたときだ。
「お前、正面ノックしてないよな。」
頷くと、先輩は目を伏せたまま言った。「俺は手順通りやった。正面でノックした。そしたら中から声がした。」
声?と聞き返すと、先輩は唇を湿らせた。「ヒソヒソ声。子どもが何人も。『違うよ』『そっちじゃないよ』って言ってた。で、はっきり聞こえたのが『さっきは裏口に居たもん。裏口でやろうよ。』だった。」
先輩はそこで黙った。裏口へ回れなかったんだと言った。怖くて足が動かなくなって、そのまま戻ってきたんだと。
俺は聞きながら、なぜ先輩が「カルテはなかったってことにして新しく作れ」と言ったのかが少し分かった気がした。見つからないからではない。取りに行く行為そのものが相手の遊びになる。こちらが手順に従っても従わなくても、向こうは気づいている。気づいていて、誘導してくる。
それでも仕事は仕事で、俺は夜勤を続けた。旧保育園に行くことは一度もなかった。必要なカルテがそこにある場合は、見つからないことにして新規作成する。医師には嫌味を言われたが、俺は笑って流した。
ただ、俺の中で終わらなかったのは、あの「新しく作れ」だった。
カルテを新規で作るときは、病院の受付システムで患者情報を登録して、患者IDを出して、それを紙のカルテ表紙に貼る。夜勤の当直室で一人、パソコンの画面を眺めながら作業していたある夜、いつものように「新規患者登録」を開いた。カーソルが点滅し、名前と生年月日と住所の欄が空白で待っている。俺は患者の情報を入力しようとして、何の気なしにEnterを押した。
画面が切り替わった。入力する前なのに、すでに名前が入っていた。
俺の名前だった。
フルネーム。俺の生年月日。俺の住所。電話番号まで一致している。登録日だけが異常に古くて、十五年前の日付になっていた。俺がまだこの病院で働くどころか、成人してすらいない頃だ。
一度ログアウトした。再ログインして同じ画面を開いた。やっぱり同じだった。新規患者登録の初期表示が俺の情報になっている。誰かの悪ふざけだと思って総務に相談しようかとも思ったが、夜勤中にそんな電話をしたら笑われるだけだろう。何より、あの旧保育園の窓を思い出すと、誰かの悪ふざけという形に落とすのが逆に怖かった。
俺は震える手で「患者情報検索」を開いた。俺の名前で検索すると、ヒットが一件出た。患者IDが表示され、その右に小さく「カルテ保管場所」の項目があった。
旧保育園。
画面の文字はただのデータのはずなのに、背中に冷たい指が一本沿ったような感覚が走った。俺は勢いでその患者情報を削除しようとした。権限がないと弾かれた。なら変更だと思って住所欄を一文字だけ直して保存を押した。エラーが出た。「変更できません」とだけ表示され、理由は書かれていない。
その瞬間、背後で紙が擦れる音がした。振り返ると、当直室の机の端に紙のカルテが一冊置かれていた。さっきまでそこには何もなかった。誰も入ってきていない。ドアは閉まっている。カルテの表紙は古い色で、角が丸く擦り切れている。表紙の患者名欄に、俺の名前が書かれていた。ペンの線が新しい。俺の字だった。
俺はそのカルテを開かなかった。開いたら終わる気がした。代わりに表紙の右上を見る。患者IDが貼ってあった。さっき画面に出たIDと同じだった。
それから俺は辞めるまでの間、夜勤で何度もその画面を見た。俺の患者情報は消えなかった。変えられなかった。患者履歴の欄には受診科が「整形外科」とだけあり、受診理由の欄が空白のままになっている。空白が一番嫌だった。何が書かれていたのか、誰が消したのか、あるいは最初から書かせないのか。考えるほど、旧保育園の闇が頭の中に広がった。
辞める日、ロッカーを片付けていると内線が鳴った。医事課からだった。担当者は事務的な声で言った。「○○さん、あなたのカルテの保管場所が旧保育園になっているんだけど、場所コードが間違ってるよね。直しておいて。」
俺は「はい」とだけ答えた。声が出たことが意外だった。電話を切ったあと、手が汗で濡れていた。間違いだと言い切れなかった。間違いではなく、決まりなのかもしれない。あそこに行くときは、必ずしなければいけないことがある。ノックして、灯りを点けて、鍵を開ける。順番を守る。相手がそれを待っている。
帰りのバスの中でスマホが震えた。知らない番号だった。出ると、どこか遠くで子どもが笑うような気配がして、すぐに女の声が被さった。病院の自動音声だった。予約確認の案内で、機械的に淡々と言った。
「○月○日、整形外科の再来予約があります。受付は裏口をご利用ください。」
裏口という言葉だけが、車内の雑音の中で妙に鮮明だった。俺はスマホを耳から離した。画面を見ると通話時間はまだ数秒しか経っていない。自動音声が続く。俺の名前を呼び、患者IDを読み上げ、最後にこう言った。
「正面は違うよ。」
通話を切った。窓の外は雪じゃなく雨だった。街灯の光が濡れた道路に滲んで、あの旧保育園の窓の内側みたいに見えた。俺はバスの降車ボタンを押せなかった。押したら、どこへ降りるのか分からなくなる気がした。
[出典:277 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2015/08/31(月) 22:17:48.01 ID:W4jHfNBP0.net]