西に傾いた秋の日差しが、窓硝子の表面にこびりついた汚れを、いやにくっきりと浮かび上がらせていた。
私は高層アパートの六階にあるこの部屋で、外界から切り離された魚のように、ただ時間を消費している。
窓の外には家並みが広がっている。色褪せた瓦屋根、屋上の貯水槽、絡まり合う電線。どれも作り物めいて静止し、私の生活とは何の接点も持たずに存在していた。
窓辺の安楽椅子に身を沈める。
身体を揺らすたび、椅子の継ぎ目がかすかな悲鳴を上げる。
ギィ、グウ。ギィ、グウ。
それだけが、この部屋に残された唯一の時間だった。
膝の上には大判の画集。フランシスコ・デ・ゴヤ。
黒と茶褐色に沈んだページを、指で弾くように捲る。
「我が子を食らうサトゥルヌス」。
狂気の眼と裂かれた肉体を前にしても、私の心は一切波立たない。退屈という沈殿物が、血管の隅々まで詰まっている。
この部屋は静かすぎた。
生活の気配が漂白された無音。
自分が呼吸していることさえ、誰にも感知されていないのではないかという錯覚。
孤独ではない。孤立だ。
社会という巨大な器官から切除された、壊死寸前の細胞。
不意に、内部で均衡が崩れた。
心臓が異様に大きく脈打ち、次の瞬間、雑巾を絞るような圧迫感が胸郭を締め上げる。
画集が膝から滑り落ち、鈍い音を立てた。
視界が黒く焦げ、指先から熱が失われていく。
発作だ。
私は肘掛けを掴み、床を蹴って立ち上がった。
世界が左右に傾く。
脂汗が噴き出し、目に滲む。
机だ。あそこに「命」がある。
茶色い紙袋。
中身をぶちまけ、薬包紙を掴み取る。
封を切ると、アスファルトのような灰色の粉末。
水を用意する余裕はない。
私は顎を突き出し、粉を直接流し込んだ。
強烈な苦味。
舌が麻痺し、喉を焼き、胃の底に重たい熱が落ちる。
一秒、二秒。
心臓を掴んでいた見えない手が、ゆっくりと力を緩める。
鼓動が整い、血が末端へ戻ってくる。
助かった。
これは心臓弁膜の欠陥だ。
爆弾を抱えて生きている。
だが、この粉があれば、何度でも死から引き戻される。
主治医が調合した劇薬。毒に等しい成分を含むが、私にとっては聖水だった。
恐怖が薄れ、再びあの鈍い虚無が戻る。
私は安楽椅子に戻り、天井の染みを眺める。
死の恐怖のあとに残るのは、生への執着ではなく、圧倒的な空白だった。
西日が部屋の奥へ伸び始めた頃、ラジオをつけた。
ノイズ混じりのクラシック。バッハだろう。
厳格な旋律が、私の不揃いな心拍と対照的に時を刻む。
そのとき。
コン、コン。
ドアを叩く音。
来客の予定はない。
私は返事をせず、耳を澄ませた。
「……どなたです?」
しばらくの沈黙の後、若い女の声。
「ローラ花店でございますわ。お花をお届けに参りましたの」
花屋。
一週間前、気まぐれで契約したのを思い出す。
部屋の腐臭をごまかすため。
そして、自分がまだ社会と繋がっているという錯覚のため。
「鍵は開いています」
ドアが開く。
甘い香りが流れ込む。
若い女だった。二十歳そこそこ。
栗色の髪、地味なエプロン。
抱えているのは、真紅の薔薇と白い百合。
彼女は枯れた花を手早く片づけ、新しい花を生け始めた。
その背中を見ながら、私の中に歪んだ感情が芽生える。
退屈だ。
生きている彼女が、耐えがたいほどに眩しい。
私は彼女を引き留めた。
愛の告白という形で、時間を歪めた。
拒絶。予想通りだ。
そこで私は、灰色の粉を取り出した。
脅しのための舞台装置。
そして、金魚鉢に粉を落とした。
琉金は狂い、白い腹を見せて動かなくなった。
だが、彼女は叫ばなかった。
ただ、静かにそれを見つめていた。
私は苛立ち、台所へ水を汲みに行った。
そこで、発作が来た。
これは演技ではない。
本物の死。
私は戻り、最後の一包みを飲み込んだ。
だが、効かない。
床に崩れ、視界が狭まる。
彼女が近づいてくる。
「本当に、飲んだのね」
彼女は微笑んだ。
「さっき中身をすり替えておいたの。胃薬に」
理解が追いつかない。
彼女は善意で、私の命綱を排除した。
私が殺した金魚は、私自身だった。
視界が闇に沈む直前、彼女の声。
「ずっと一緒にいましょうね」
花の匂いが強くなる。
百合、薔薇、土。
心臓が一度、大きく鳴った。
そして、止まった。
[星新一オマージュ作品]