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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

柱に残った亀裂 nw+

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畳の上に、濃い霧がへばりついている様な朝だった。

湿度の高い、重苦しい光が障子紙を透過して、部屋の輪郭を僅かに持ち上げている。太陽が昇り切る前、世界から色彩だけが抜き取られた直後の様な、曖昧な灰色一色の時間だった。昨夜の熱気は、窓を閉め切った部屋の隅々で冷え固まり、鼻腔には澱んだビールと汗の混じった臭いがこびりついている。

肌に纏わりつく空気が不快だった。居酒屋の喧騒が嘘の様に、今は完全な静寂に沈んでいる。耳の奥で、低い唸りの様な音だけが鳴っていた。血流なのか、外の振動なのかは分からない。ただ、その音は意識を底から引き上げるには十分で、逃げ場のない覚醒を強制してくる。

布団は腹の辺りまで捲れ上がり、昨夜着たままのスーツとネクタイが身体に張り付いていた。化学繊維と汗が混ざった感触が、皮膚の呼吸を塞いでいる。頭が鈍く痛む。酒の残滓が血管の中を粘ついた何かとして巡っている感覚があった。

時計を見ようとして、気づく。身体が動かない。首も腕も指先も、全てが分厚い塊に封じ込められている。金縛りだ。だが、いつもの様に数秒で解ける気配がない。神経の奥を、冷たい水が逆流する様な感触があり、それがゆっくりと心臓へ向かって広がっていく。

空気そのものが密度を増していた。湿った粒子一つ一つが意思を持ち、皮膚を撫で、拘束している様に感じられる。瞼の裏では、アルコールの残像が作り出す光の縞が歪み、形を変えていた。

畳を通して、微かな振動が背中に伝わった。何か重いものが、床の上を引きずられる様な圧だ。眼球だけを、僅かに動かす。

視界の端に、この部屋の灰色とは異質な色が差し込んできた。古びた赤銅色と、濁った象牙色が混ざり合った、生き物の色だ。それは私の顔のすぐ横、枕元にあった。

老女の顔だった。

深い皺が刻まれ、頬骨が異様に浮き、眼窩は暗く落ち込んでいる。口は裂けた様に開き、その表情は固定されていた。恐怖より先に、説明しがたい不快感が込み上げる。呼吸音も衣擦れもない。ただ、顔がそこにあるという事実だけが、皮膚のすぐ外側の空気を圧迫していた。

声を出そうとしても、喉の奥で何かが詰まったまま動かない。老女の顔は、筋肉の動きを感じさせないまま、僅かずつ距離を詰めてくる。油圧で押し出される機械の様な、滑らかで無機質な接近だった。その皮膚からは、生き物の温度が感じられない。

限界まで引き延ばされた時間の中で、鈍く乾いた衝突音が響いた。

柔らかい肉が打ち付けられた音ではない。中が空洞の陶器が砕ける様な、不自然な音だった。老女の身体は柱に激突し、そのまま床に崩れ落ちた。柱には、小さく深い亀裂が走っている。空気が一瞬だけ弾け、樟脳の様な古い匂いが濃くなった。

その直後、背後の空気が僅かに歪んだ。

誰かが、そこに立っている。視線を動かせないまま、私はその存在を、圧と気配だけで感じ取っていた。温度が違う。部屋の澱んだ微温とは異なる、血の通った熱だった。

右腕が、大きく振り上げられる気配がある。次の瞬間、空気を切り裂く様な衝撃とともに、床に伏した老女の首元に、強烈な一撃が叩き込まれた。音はなかった。ただ、空間が一瞬だけ欠落した様な感覚が走る。

老女の身体は、壁に届く前に、霧が散る様に分解し、跡形もなく消えた。

金縛りが、音もなく解けた。

身体を覆っていた冷たい拘束が消え、代わりに説明できない疲労感が全身に広がる。私はゆっくりと起き上がった。部屋は元の静けさに戻っている。ただ、柱には確かに亀裂が残っていた。触れると、木材は冷たく硬い。

自分の手のひらを見る。

それは、見慣れた自分の手ではなかった。皺が深く、関節の太い、日焼けした様な褐色の手だ。だが、その感覚は曖昧で、次の瞬間には、元の自分の手だった様にも思える。

床に残ったのは、何もない。老女の痕跡も、もう一つの存在の痕跡もない。ただ、柱の亀裂だけが、ここで何かが起きたと主張している。

私は、何を見て、何をしたのか分からない。助けられたのか、使われたのか、それとも今も何かが身体の奥に残っているのか。

分からないまま、柱の亀裂から指を離した。
部屋の空気は、もう新鮮ではなかった。

[出典:211 :本当にあった怖い名無し:2010/02/18(木) 10:47:24 ID:SI05zTnAP]

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